TirtaA



第二章ユーリ


 灯火を引き寄せて羊皮紙を拡げると書かれた複雑な図式に眉根を寄せる。
「ユーリさま、おいでですわ」
 天幕の向こうで声がした。
「ああ、入って」
 垂れ布が上げられると、痩せた若い男が現れた。
 筋張った首が細いのに大きな頭がどことなく不安定な印象を与える青年だった。
「お呼びでしょうか、陛下」
 ぎこちなく頭を下げた姿に、ユーリは表情をゆるめた。
「堅苦しくしないで、ちょっと話したいだけだから」
「はい」
 青年は素直に応えると、示したクッションの上に腰を下ろした。
 皇妃用の天幕の中を落ち着かぬ様子で見まわして、ようやくユーリの持つものに目を留めた。
「なにか、気になる点でもございますか?」
 ユーリの手の中の図面をのぞき込む。
「ううん・・・これは完璧だわ。イル・バーニも感心していた」
 目の前の青年は頬を赤らめ目をごしごし擦った。
 目が悪いのか、これがこの青年の癖だった。
 ユーリはふと、この青年が現代にいたら分厚いメガネをかけていそうだと想像した。
 教室にいれば典型的なガリ勉君タイプだろう。
 おおよそ運動神経などかけらもないがりがりの身体に、頭でっかち。
 暇さえあれば粘土板に向かっている。
 時々ずり落ちてくるメガネを押し上げる癖。
 そう思うと、我知らずに微笑みが漏れた。
「なんです?」
 眼をしばたかせながら青年が訊ねる。
 これもこの青年の癖だ。
「なんでもないよ・・・飲まない?」
 ユーリがかたわらのデキャンタを持ち上げると、青年は頭を振った。
「私はお酒は・・・」
「あたしもよ、これは蜂蜜湯」
 いたずらっぽく舌を突きだすとカップに蜂蜜湯を注ぎ分けた。
「乾杯しましょう、成功を祈って!」
 無理矢理手の中に握らせる。
 青年はまた瞬きをくりかえした。
 カップの中の琥珀色の液体をのぞき込む。
「成功ですか?」
「してくれなきゃ、困るの!」
 ユーリは互いのカップをぶつけると、口を付け一気に飲み干した。
 甘い味が口の中に広がった。
 青年はためらったが、やはりカップを傾けた。
「・・・女神に」
 そう言ってカップをあおり息をついた青年を、頬杖をついたユーリは面白そうに見返した。
「あたしのこと、女神なんかじゃないって言ってたでしょ?」
 青年は困ったように顔をゆがめた。
「あの時は・・でもあなたは女神です。不可能を可能にする・・・」
 まるで今にも泣き出しそうに情けない表情になる。
 行き倒れていても彼はどことなく偉そうだったのに。
 ユーリは青年と初めて出会ったときの情景を思いだした。


 青年は街道沿いの木の下で、空腹のために倒れ込んでいた。
 遠駆にアスランを走らせていたユーリがのぞき込むと行き倒れ男は弱々しくまぶたを開いて手を伸ばした。
「食べ物をくれ」
 ユーリの差し出したパンを奪い取りたいらげると青年はようやく訊ねた。
「ありがとう、あんたの名前は?」
「ユーリ・・・」
 青年は感心したように瞬きした。
「女神様と同じ名前か・・・いや、女神と呼ばれている皇妃と同じか」
 それから、慌ててつけ加えた。
「いや、あんた方は信じているんだったな」
「あなたは皇妃が女神だと信じていないの?」
 この国に来てから女神と祭り上げられることにようやく慣れ始めたユーリは行き倒れに興味を覚えた。
 行き倒れの格好はどこか不思議だった。
 襟の高い袖の長い灰色の服は裾を引くほどに長い。それを数本の腰ひもで短く着付けようとして失敗している。
 地面に擦れたのか、裾はところどころすり切れている。
 髪は伸び放題でもつれ合っていた。洗えば金色か、明るい茶色だろうか。
 ぼそぼそと歯切れ悪く話す言葉にはなまりがあった。
「人間が神のはずがない」
「そうかもね」
 後ろめたさを感じた青年が目をそらしたのをいいことに、ユーリはぶしつけなほどに顔を観察した。
 もとから薄いタチなのか、まばらな髭が顔のそこここに生えている。
 若いのかそうでないのか、初めて見た印象ではよく分からなかったが、青年が自分よりはわずかな年かさに過ぎないことを感じ取った。
 ぼろぼろだけどこの服装は、学問の館にいる博士達に似ている、とユーリは思った。
 ただ、博士達の多くは頭をそり上げている。そうでなくても髪は短く刈り込まれているのが普通だ。
 この青年だってかつては髪を刈り上げていたのかも知れないが。
 博士が野山をふた月ほどもさまよい歩けばこのように汚れるのかもしれない。
 もっとも国の保護を受けている博士がそこいらを歩き回って行き倒れるはずがない。
「あなたは・・なんて名前なの?」
「エンキ」
 青年は言うと照れたように付け加えた。
「神様と同じ名前だな」
 鼻をかくのを見て、ユーリは笑った。
「良い名前だわ!」
 そして、その神が主に外国で信仰されていたことを思いだした。
「もしかしてバビロニア人なの?」
 エンキはバビロニアの水の神のはずだった。
「そうだ、僕はバビロンの学問の館にいたんだ」
 エンキと名乗った青年は言うと薄い胸を張って見せた。
「じゃあ、博士なの?」
「いや、まだ学生だけど」
 青年は口ごもった。
 学問の館には星や数学を研究している博士達がいて、その下には教えを請う学生達がいた。
 どこの国にも、王家が保護する学問の館はあり、国の神事の日取りを占ったり、天災の予兆を調べたりする。
 カイルに連れられてハットウサ学問の館には何度か足を踏み入れたことがあった。
「バビロンの学問の館にいたなんて!」
 ユーリは素直に驚きの声を上げた。
 古くからの伝統を誇るバビロニアの首都は、学問と研究の首都でもあった。
 そこの学生になるために世界中から優秀な人物が集まってくる。
 ハットウサで合う博士達はいつもバビロニアの学徒をたたえていた。
 目の前の青年は素直な驚嘆に、また照れて頭をかいた。
「でも、どうして学生がここにいるの?」
 それも道ばたで倒れ込んで。
 ユーリの言葉に、エンキは口元を引き締め急に真面目な顔になった。
 決意したように居ずまいを正す。
「僕はムルシリ二世に会いに来たんだ」
 ムルシリ二世、という言葉を折り目正しく発音する。
「皇帝陛下に?」
 ユーリはあっけにとられた。一介の学生が気軽に会えるほど皇帝の存在は身近ではないはずだった。
 ましてやエンキは修学途中の他国の学生に過ぎない。
「そうだ、なんとしても皇帝陛下に拝謁を願う!」
 エンキは力強く言うと、今の今まで倒れていたとは思えない勢いで骨張った拳を振り上げた。
「ヒッタイトの皇帝は、オリエント一の賢帝だと聞いている、だから僕の話を聞いてもらうんだ」
 彼の瞳の中に強い光を見て取って、ユーリは興味をかき立てられた。
「あなたの話ってなによ?」
 この痩せた青年が、皇帝に直接に会わなければならない用とはなんだろう。
 ユーリの言葉に、エンキは勢い込むと服の下から一枚のパピルスを引き出した。
 長い間服の下にしまい込まれていたのか、ボロボロになったそれをエンキは苦労して地面の上に拡げて見せた。
「他のヤツは笑ったけどね、ムルシリ二世ならきっと分かってくれる・・これはみんなが幸せになれる方法なんだ」


 エンキはもじもじと手のひらの中でカップをいじった。
「陛下は私を皇帝陛下にお引き合わせ下さいました・・・それにこのような計画を実行に移してくださいました」
「あなたの計画が良かったからよ」
 ユーリは言うと、もう一度羊皮紙に視線を落とした。
「あたしも、陛下もどうすれば民が幸せに暮らせるのか、いつも考えているの。だからこの計画を知ったときは嬉しかったわ」
 元老院はこのようなことは無謀だと反対した。けれど最終的に決定を下したのはカイルだった。
 しぶる議員達に皇帝の名で裁可を下し、不本意ながらもユーリに計画への参加を認めた。
「なにもしないよりも、なにかしてみたいの」
 カイルに言った言葉を繰り返し、描き出されたプランを指先でなぞった。
 羊皮紙には調べうる限りの地図が描かれ、数式がかき込まれている。
「もし、あたしが不可能を可能に出来るのなら、ぜったいにこれを成功させるわ」
 食料と軍をつけて送り出してくれたカイルを想った。
 出立の朝、抱きしめて信じようとささやいてくれた声が耳元によみがえる。
「あたしは女神じゃないけど」
 それでも信じてくれている人たちのために、なにかを成し遂げなくてはならないのだ。
 灯火に揺れるユーリの顔をエンキはまぶしそうに見つめた。
 この、小柄な皇妃には確かに他の人にはないなにか別の力が潜んでいるのだと、エンキは信じ始めている。
 人が神になれるはずはないのだけれど、皇妃がここにいることは天の配剤だと思うのだ。
 ユーリには、信じたくなるような、なにかがある。
 かすれ行く視界の中に、つやつやと輝く黒馬から彼女が降り立ったとき、一瞬女神が現れたのだと思った。ただの子どもだと見て取って落胆はしたが。
 それがこの国の皇妃だったのは、なんという偶然なのだろう。
 半信半疑だったエンキを馬に引き上げ、むかう先が王宮だと知ったとき。
 後宮に案内も乞わずに踏み込んで行くのに引きずられながら、出会った奇跡を思った。
 出立の時、彼女の号令に一糸乱れずに行軍が始まったのを見て、身震いをした。
「成功させますよ、きっと」
 エンキは視線を外すことなく言った。
 天の配剤なら、この自分の描いた夢は実現するのかもしれない。
「女神がついているのですから」
 ユーリが女神なのか、そうでないのかはどちらでも良かった。
 ただ、女神の加護を祈ろう。
 エンキは言うと、もう一度カップを差し上げた。



                

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