TirtaB

第三話 アグン

 それは幻のように地平線に現れた。
「なんだ、ありゃあ」
 盛り上がった土に脚をかけながら、先を行っていたアグンがつぶやいた。
「アグン、どうしたね」
 埃よけの布を引き下げながら父親が尋ねる。
 平坦とは行っても、大地にはいくらかの緩やかな起伏がある。
 市の立つ村をようやく目にすることの出来る丘の上で、埃まみれの三人は立ちすくんだ。
 乾いた大地の色と同じ日干し煉瓦の固まりは、三人が目指していた村だった。
 三人の住む村よりはいくらか規模は大きいものの、ひとたび風が吹けばあっさりと崩れ落ちそうなほど、弱々しい土塊に過ぎない人々の営みの場所。
 それでも、まばらな民家の点在する村から来たアグンとファナにはその村は立派に見えるはずだった。
「いったい・・・」
 アグンの父親が呆然と眼下に広がる光景にへたりこんだ。
 目の前には、とりどりの色の群れ。
 土色の風景の中に、場違いな幻があった。
 甲高いいななきが聞こえる。
 あれは、馬だとアグンは思った。
 馬を持っている者はここいらにはいなかったが、街道に沿えば早馬を目にすることもあった。
 小さな村を囲む荒れ地には赤や黄色で鮮やかに染められた天幕が立ち並んでいる。
 天幕の間のところどころに金属の輝きがあり、さらにつやつやと輝く毛並みの良い馬が幾頭もたてがみをふるわせていた。
「おじさん、あれなに?」
 ファナが夢中で、引率者の服の裾を引っぱった。
 こんなに綺麗で豪勢なものはいままでに目にしたことがなかった。
「これが、市なの?」
「市なもんか」
 アグンはつばを飲み込みながら興奮していった。
「これはきっと皇帝陛下の軍隊だよ!」
 仕立てのいい衣装を身につけて、整列した人々が歩き始める。
 列を乱すことのないそれは、彼らが専門の訓練を受けていることを示している。
 軍役とは無縁の寒村でさえ、帝国の抱える優秀な軍隊は誇りだった。
「なんで?戦争が始まるの?」
 皇帝陛下、と耳にするとファナの表情が翳った。
 気まぐれに施しをし、期待を抱かせたまま見捨てた高貴な人。
 いつか吐き捨てるように言った言葉はまだ耳の底に残っている。
「戦争って、いったいどこと?」
 アグンは地平に霞む山脈を仰いだ。
 空と山脈の接する場所までの間には茫漠とした乾いた大地が広がっているだけだ。
 ここに軍営を張る意味はどう考えてもなさそうだった。
「分からん・・・村まで降りて訊いてみないと・・・」
 ひび割れた唇を舌で湿らせながら父親は言った。
 アグンは下ろしかけた荷を慌てて肩にかけ直す。
 歩き続けて棒のようになった足で土を踏みしめながら、急に眉を寄せた。
「皇帝陛下の軍を横切るの?」
 村に続く道は確かにきらびやかな陣営の真ん中を突っ切っている。
 このか細い道は封鎖されているのかも知れなかった。
 それにファナのことも気がかりだった。
 冬の夜、村の女達が火を囲みながら四方山話を交わすおり、憧れのように取り出されるこの国最高位につく生ける女神の話題を、ファナは暗い顔で聞いていた。
「大回りしていこうか」
 気弱に父親がつぶやく。
 離れた場所からも、磨き抜かれた武具は見て取れた。
 みすぼらしい親子など、即座に地にねじ伏せられるかも知れない。
「へんにこそこそしたら疑われてそれこそ酷い目に合うよ」
 ファナが荷物を担ぐと道を睨み付けた。
 アグンは口を開きかけ、また閉じた。
 ファナの怒りが分からないでもなかった。
「そうだなあ」
 父親はしばらく逡巡したのち、頷いた。
「通れなければ引き返せと言うだろうし」
 埃まみれの道を埃まみれの三人が歩き出す。
 道はなだらかな下り坂で、重い足を前に押し出した。
 程なくして陣営のすぐ外に立つ衛兵の前に至った。

「とまれ」
 予想した通りの言葉が投げられる。
 父親がちいさく喉を鳴らした。
 アグンとファナはその背の後ろに自然に隠れるようにして立ち止まった。
「どこへ行く?」
「村へ・・」
 ぼそぼそと父親が答える。
「市が立つのでそこへ行こうと・・・」
 二人の衛兵は視線を交わし、申し合わせたように槍をおさめて近づいてきた。
「荷を改めさせてもらう」
 答える暇もなく、背負った荷物が下ろされ包みが解かれる。
 衛兵の腕が糸のたばをひっくり返すのを見ながら、ファナの拳が白くなる。
 肩に肩をぶつけて、アグンはその手を取った。
 一瞬、ファナが怒鳴り出すのではないかと怖れた。
「通っていいぞ」
 兵士が荷を荒くまとめると投げてよこす。
 ファナの喉が鳴った。
「これは皇帝陛下の軍隊なんですか?」
 知らずに口が開いていた。
 ファナの前に踏み出して、背で彼女を隠す。
 父親が驚いて口を開きかけたが、先に兵士が応えた。
「いや違う、これは皇后陛下の軍隊だ」
 存外に気さくに兵士は言った。
「イシュタル様がこのあたりを視察されているんだ」
「イシュタル様が?」
 兵士が誇らしげに肩の小さな縫い取りを示した。
「この赤い獅子はイシュタル様のお印だ」
 肩のあたりにある赤いものが獅子なのかどうなのか、アグンには分からなかった。
 ただ、厳つい兵士の顔が輝いたのに気がついた。
「ここらの旱魃が酷いので、イシュタル様は視察を思い立たれたのだ」
「旱魃をどうにかしていただけますので?」
 父親が縋るように訊ねる。
 女神と呼ばれる人なら、雨の一つも降らせてくれるはずだと思いこんでいるのだ。
「雨はどうだか知らないが、民のことを考えて下さっているぞ」
 不意に兵士は照れたように笑う。
「なにしろ、イシュタル様は俺のような兵卒にまで声をかけて下さるんだからな」
 背中で動いたファナの手首をアグンは強く握りしめた。
「お姿を見たりできるのかな」
 何を馬鹿な、と一笑されるか、あるいは一喝されるはずだと思った。
 だが意に反して兵士はあっさりと頷いた。
「ああ、神殿横の広場でお話しされるらしい」
 父親のもの言いたげな視線に、アグンはしぶしぶ荷をかつぎ直した。
「楽しみにしていな、坊主」
「ありがとう」
 ファナの腕を引っぱったまま、歩き出す。
 神殿横の広場では今日は市が立たないのだろうか。
 ファナは黙りこくって引かれるままになっている。
「市が開かれないのは困ったなあ」
 父親がぼやいている。
「だがイシュタル様を見ることが出来るのなら村の連中にいい土産話になる」
「食べるものが手に入らないのに?」
 ファナがかすれた声で言った。
 麦を手に入れなければ、食料はなくなる。
 そのことに思い当たって、アグンは頭を垂れた。
「いや、そうでもない」
 父親は声を潜めると、幕営の中ほどに積み上げられた荷駄を示した。
「あれはきっと食料だ。我々にも振る舞いはあるはずだ」
 婚儀の際の盛大な振る舞いは語りぐさになっている。
 ふんだんな食料と酒と、布の数々。
 すり切れて褪せた布を取りだして、母親は今でもうっとりと語るのだ。
「どうせ、今だけよ」
 ファナの小さな声は、浮かれている父親には聞こえなかったらしい。

 神殿は急場しのぎの漆喰で白く輝いていた。
 村人のほとんどが狭い広場に詰めかけている。
 アグン達はその隙間にかろうじて身体を潜り込ませた。
「静粛に!」
 村長が声を涸らして叫んでいる。
「イシュタル様はいらっしゃるのかね」
「直接見たら目が潰れてしまうかも知れないよ」
 大きな籠を抱えた女が口々に喋っている。
 彼女たちは振る舞いを見込んで家中で一番大きな容器を持ち出してきたのだろう。
 アグンはつま先だって前方を見ようとしたが、人垣に阻まれて神殿の平らな屋根が覗くだけだった。
「よかったよ、今年は麦の値がつり上がってね」
「ああ、ほんとうにイシュタル様さまだ」
「騙されているんだわ」
 子ども特有の高い声は人混みの中で意外にとおる。
 アグンは慌てて、ファナの腕をとった。
「やめろよ、ファナ」
 ファナはアグンをにらんだ。
「あんただって、騙されてる」
「誰かに聞かれたらどうするんだ」
「かまわないよ、あいつは・・・」
 慌ててファナの口をふさぐ。
 広場の周辺には、武装した兵士が配置されていた。
「黙って、ファナ!」
 どうっと周囲がどよめいた。
 人々が口々に叫び始める。
「静かに、聞いて!」
 澄んだ通る声が響いた。
 ファナの頭を抱え込むようにしていたアグンは、驚いて振り返った。
 人混みの向こう、白い神殿の屋根の上に、すらりと立つ姿があった。
 一瞬、逆光がまぶしくて目をすがめる。
 声は澄んだまま人々の頭の上を流れた。
「わたしは、ユーリ・イシュタル」
 あちこちで歓呼の声が上がった。
 声はうねりながら広場を埋め尽くす。
 ファナを抱きしめたまま、アグンは伸び上がった。
 細い両腕が宙に差し伸べられる。
 まるで魔法のように、腕の動きに従ってどよめきが止んだ。
「今日、わたしがここに来たのは、人足を集めるためです」
 アグンは息を飲んだまま、女神を眺めた。
 噂通りの黒髪、想像していたのとは違う華奢な身体。
 なのにこの人を圧する存在感はなんだろう。
 女神は人々を見渡した。
「わたしは施しをしに来たのではありません」
「どういうことだい?」
 そばにいた女がつぶやいた。
「麦はもらえないってのかい?」
 アグンの腕の中でファナが息を飲んだ。
「わたしは、この村に水を引こうと思います」
 女神の腕がすっと差し上げられた。
「あの、山から」
 まるで陽炎のように地平に揺れる細い帯を指さした。
「馬鹿な」
 吐き捨てるように言ったのは誰だろう。
 たちまち、広場に不満の声が広がった。
 皆、今日この場で振る舞いの食料が手にはいることを期待してきたのだ。
 水を引くという話は施政者の気まぐれな道楽にしか思えない。
 アグンのような子どもにさえ、それは不可能な話に聞こえた。
「あたしらは今食べるものが欲しいんだよ!」
「これ以上人手を取られたら食べていけないね!」
 神殿の屋根の上に、男が現れた。
 その男はずいぶんひょろ長いように見える。
 男は危なかしげに屋根の上に立ち上がると、急に声を張り上げた。
「人足になれば食料は配給する!」
 言葉にはなまりがあった。
 外国の者なのかも知れない。
「そのための食料は充分に持ってきている!」
 騒ぎは鎮まらなかった。
 男は声を裏返らせて叫んだ。
「一生施しを受けるつもりなのか?」
「水があれば、餓えることは無くなるわ」
 女神の声がまた響いた。
「今、水を引いて、大地に実りをもたらせば、この先子ども達は餓えることがないでしょう」
 まだ不満そうな顔をしたまま、広場の人々は女神を見上げた。
「ここにいるのは、バビロニアから来た技術者です」
 女神は痩せた男を示した。
「彼はあなた達に手を貸します」
 男の肩に女神の手が載せられる。
「あなた方の手で、水路を掘るのです。皇帝陛下もわたしも援助は惜しみません」
「騙されてるのよ」
 つぶやいたファナをアグンは振り返った。
「そうかな?」
 もの言いたげなファナを振り切るとアグンは力一杯腕を上げて飛び上がった。
「おれ!おれ、人足になるよ!!」
「アグン!?」
 父親の驚いた声が上がる。
「どうせ、食べていけないのなら、やってみる価値はあるだろう?」
 小声で返すと、また神殿の方へ向き直る。
「おれ、アグン!大人並みに働けるよ」
 大胆なことを言い出した子どもを大人達が呆れて振り返る。
 アグンは神殿の上の女神をまっすぐに見上げた。
 女神の表情は遠すぎて分からなかった。

 けれど、次の言葉で彼女は微笑んだはずだと思った。
「そう・・・アグン、ありがとう」

                

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