Tirta C



第四話 エンキ


 出来るだけ明るい場所を求めて天幕のそばに腰を下ろす。
 傾いた日差しは手元に影を作るばかりで、細かい文字を見るのに最適とは言い難かった。 それでもエンキは眉間に思いっきり皺を刻むと、掘り出されたばかりの粘土の固まりを片手にぶつぶつとつぶやく。
「ねえってば」
 何度目かの呼びかけなのだろう、焦れた声がすぐかたわらでして驚いて顔を上げる。
 粗末な素焼きの椀を片手に、少女があきれ顔で立っていた。
「・・・あ?」
 計算式の中にどっぷりと身体を預けていたせいか、すぐにはその少女が誰だか認識出来ない。
「また食いっぱぐれるよ?」
「ああ・・・ファナ?」
 ようやく、まかない担当に雇われた女たちに混じる少女の名を思い出す。
 ファナは大人びた仕草で肩をすくめると、エンキの手にスープの入った椀を押しつけ、腕に下げた籠からパンを引っ張り出した。
「あなたって、考え事をしているとお腹が空かないの?」
 どう考えても配給よりは大きいパンの固まりを渡されてエンキは腹のあたりを手でさすった。
 昼食の時間は考え事をしている間に終わってしまったのだった。
 肉体労働者ばかりの集団だ。時間の過ぎた賄い場に行っても食べ物など残っているはずもなかった。 空腹を紛らわせるために図面に没頭し、また食事を逃すところだった。
「いいのかい、これ?」
 余分に持ち出そうとすればとがめられるだろう。
 ファナはチーズの固まりを切り分けながら頷く。
「賄い親方がね、学者先生はお昼を食べてないから持っていけって」
「そうなのか」
 エンキは鼻の頭を掻いた。
 どうやら、頻繁に食べそこねることに気づいていた者もいるらしい。
 賄い方の間では話の種にでもなっているのだろうか。
「はい、これも」
 切り取られたチーズを受け取ると、エンキは残りのチーズを布でくるんでいるファナを眺めた。
 どちらかというと、力仕事をする男達の多い場所だ。こんな子どもは珍しい。
 エンキの視線に気づいたように、ファナは顔を上げた。
「なに?」
「いや、君みたいに小さい子が働きに来るのは珍しいと思って」
 とたんにファナはつんと顎を突き出した。
「あたし、もう12よ。あいにくと都のお上品な育ちとは違って、このあたりじゃ立派な働き手の年頃だわ」
 身体の大きさから推し量っていた年齢より上の歳を言われてエンキは慌てた。
 食料の満足にはないこのあたりではほとんどの民の体格が小さい。
 都ではやせっぽちだと揶揄されていたエンキよりも腕の細い大人達は珍しくないのだ。
「そうか、えらいな、お母さんの手伝いをしているのかと思ったんだ」
 チーズを口に押し込みながら、ぼそぼそとつけ加える。
「母さんはいない。去年の旱魃の後の流行病で死んだの。父さんはその前の年に事故で」
 さらりと返された言葉にまたしても俯くしかない。
 このあたりに雨が降るのは短い春先だけだ。そのわずかの恵みもここ数年不足しているのだと、ユーリに教えられていた。
「そうか、気の毒だな」
 ファナがまた肩をすくめたのが分かった。ありきたりの言葉しか返せない自分が情けなかった。
 早い時期から学問の館に籠もりっきりで外の世界は書物でしか知らなかった。
 旱魃を防ぐには水路を引けばいいのだろうと考えついたのも、机上の計算でしかなかったのだ。
 彼の案をみんなあざ笑った。そんな数年越しの計画よりもとりあえずの物資の輸送手段を考えたらどうだ、と言う者もいた。
 半ば意地になって館を飛び出したが、実際にこの場に来てみると、人々が何を今一番必要としているのかが分かる。
 彼らは飢えているのだ。
「水路が出来れば、旱魃もなくなるから」
「いつ出来るの?」
 ファナの言葉に黙り込む。



 主要な基幹路だけでも10年かかる、とはじき出した。
「そう、10年」
 机に肘を突いたまま、ユーリは繰り返した。
「ええ、10年はかかります。それから分水路も整備すると30年」
「だめよ、それじゃあ」
 予想通りのユーリの言葉に肩を落とす。また、追い払われるのだ。
 学問の館を飛び出て、各国の知事や太守を回った。
 門前払いを喰らわされることもあったが、運良く話を聞いて貰えたとしても計画の遠大さに誰もが首を縦には振らなかった。
 力と財力を有するオリエント一の強国、ヒッタイトでも無理だと言われるのか。
 肩を落としたエンキの耳に、こともなげなユーリの声が届く。
「5年でなんとかしよう」
 あっけにとられて、エンキはユーリの顔を見返した。無理難題をふっかけて身の程知らずの学者見習いを引き下がらせるつもりだろうか。
 しかし、ユーリは拡げた地図から目を離さなかった。
 帝国の最機密にかかわる詳細な地図をエンキに与えてくれたのはユーリだった。
「無理です、どんなに頑張ってもそんなに早くは」
 ただ地面を掘り返せばよい、と言う訳ではないのだ。
 乾燥した地域を通るために、水路は地下を通すことになっている。
 深い井戸の底を何本を繋いでいけば水分の蒸発を防げるだろうというのがエンキの持論だった。
 ユーリは平然と地図の上を指でなぞった。
 調べうる限りの地質と地盤から計算された水路の線が引かれている。
 これらの水路には無数の縦穴が付随している。それらすべてを掘り抜かなければならないのだ。
「人海戦術でいけばいいよ」
「兵士を全部つぎ込むのですか?」
 軍事大国のヒッタイトの屈強な兵士達を全部土木事業にかり出しても時間がかかるだろう。
 それにこの戦乱の世のなか、兵力を手放すに等しい行為がいかに愚かなことかエンキにでも分かる。
「まさか、そんなことはしないよ」
 ユーリは指先で地図に赤い線で描かれた水路を辿って見せる。
「このあたりはここ数年、旱魃がひどい」
 エンキは頷いた。
「ええ、だからここに水路を引こうと・・・」
「放牧に必要な草にさえ不足して人々は食べる手段がないでしょう?陛下は国庫を開いて救援物資を送ろうとされています」
「その人々を使役する、と?」
「使役っていうかね、ちゃんと雇うのよ、人足として。
労働の対価として食料を与える。職場は家から通えるところ。
朝起きて、仕事にやってきて、夕方には食料を受け取って家族の元へ帰る。どうかな?」
 目をのぞき込まれてエンキは言葉に詰まった。
「何年も使役にかり出されるのは苦痛だわ。でも家族と一緒に過ごせるのなら、食料も手にはいるのだし悪くないと思う。それに、出来た水路のおかげで彼らは小麦を栽培できるようになる」
「でも、水路を掘るのには技術が・・・」
 つばを飲み込みながらエンキはようやく言う。
 確かに人手は足りるだろう。けれど水路の傾斜角度には綿密な計算が必要なのだ。
 頑なな学者見習いの言葉にユーリは地下水路の断面図を取り上げる。
 数式の書き込まれた基底部を指し示す。
「水路の角度を決めるのは最終段階じゃないの?縦穴を掘るのは一本も掘れば覚えられるでしょう?」
「たしかにそうですが」
 理論的にはそうかも知れない。綿密な設計図にそって作業していくことが出来たら、
最終段階の微調整だけで水路は完成する。
 それでも、統制された組織なしに作業が上手く行くのかどうか分からない。
「幹線水路さえ整備出来れば、分水路はそこに住む者が作っていけばいいし」
 言いながらユーリは地図に書き込み始める。
「一つの縦穴を掘るのに十日。幹線を掘るのに必要な井戸の数が7000本、50の村で作業を開始したら、一つの村で140本・・4年で出来上がる計算だけど?
残り一年で微調整に入ればいい」
 そして、つけ加える。
「この事業はイシュタルの名で行われるとしたら?」
 エンキはユーリによって書かれた数式を食い入るように眺めた。
 この国の人々がいかに女神を崇めているか、道すがら何度も耳にした。
「できる、かもしれない」
「やってもらわないと」
 言うとユーリは身体を起こした。ふとエンキを見返す瞳に真剣な光が宿る。
「期間は5年。その間の工具や食料はこちらが用意します。最初に植え付けるための小麦も。
これが国にとってどれぐらいの負担なのか、分かるわよね?」
 エンキも表情を引き締める。
 つまりは、5年間一つの地方の人々を国庫で養おうということなのだ。
「分かります」
「じゃあ、やってくれるよね?」


 エンキが気づいた時、ファナは珍しそうに粘土の固まりを眺めていた。
 いつの間にか考え込んでいたのだ。
「ねえ、これって井戸から出てきたの?」
 言うと、粘土をつついた。
「アグンが言ってたけど、井戸の奥では地面が濡れてたりするって。水が湧くかもしれないね」
 エンキはスープに浸したままふやけてしまったパンを飲み込んだ。
「ああ、そうすればとりあえずの水は足りる。水路が完成したら底は粘土で塞ぐけど」
「あら、どうして?」
「水路の水が漏れないようにするためだよ」
 伝令の言葉では通過してきた村のいくつかで、すでに水は確保されているようだった。
 当座の水を汲む井戸を深く掘ること、そうすれば人々はより作業に熱心になる、とはユーリの助言だった。
 その村での作業能率が上がったようだと、伝令は言った。
 エンキは内心、ユーリの予言に舌を巻いていた。
 数字を計算することは得意だったが、人の心の動きまでは予想出来ない。
 人が何を考え、どう動くのか。どうすれば人を動かすことが出来るのか。
 ユーリはそれをやすやすとやってのけるのだ。
 そういえば、自分もいつの間にか計画を5年で実行することを約束させられたな、とエンキは思い出した。
「水路ができあがれば、自分たちで小麦が育てられる」
 言ってからエンキは、ファナの表情に気づいた。
 困ったような、情けなさそうな顔だった。
「あたし、小麦なんて育てたことがない。実がなってるところなんて見たことがないの」
 まるで想像も出来ないと言うように、なんども首をかしげる。
 ファナにとっての小麦は固い籾に包まれたザラザラとした粒で、ありったけの毛糸と引き替えにわずかばかり手に入れられる物だった。
 大切に籠の奥にしまい込む小麦が太陽の下で風に吹きさらされている姿をどうやって想像できよう。
 エンキはまたしても予想もしていない反応に、己を恥じた。
 生えている小麦を見たことがない者がいる。
 当然と言えば、当然だった。
 この地方は農作には水が足りなくて、人々は細々と山羊の放牧で暮らしている、と聞いたはずだった。
 貧困が習い性になっている地方で、実りを知らない少女を前にしているのだ。
 ファナは懸命に小麦を思い描こうとして喋り続けた。
「草の実、なんだよね。ってことは最初は緑色なのかな?」
「ああ」
 ようやく言うとエンキは立ち上がった。出来るだけ明るい声を出してみる。
「刈り入れの時期には高さはこれくらいかな?」
 腹の下あたりに地面に水平にした手のひらを添える。
「そんなに大きいの?」
 ファナも立ち上がる。
 エンキの示した位置を不思議そうに眺める。
「それから、葉っぱは細長くて尖っている。気をつけないと手を切ることもある」
「切ったのね?」
 笑いを含んだ言葉に鼻の頭を掻くと、エンキは両手を拡げた。
「風が吹くと一面の緑の原に波が起こるんだ」
「波?」
 そういえば、この少女は海も湖も知らないのだったと、また思いあたる。
「波・・・分からないか?」
 言葉が気弱になる。
「分からないけど、見られるんでしょう?」
 ファナは言うと、両手を拡げた。
 沈みかけた太陽が、地平線で扁平な最後の光を放っている。
 残照に目を細めながら、言う。
「見たいなあ」
「見られるよ」
 長く伸びたファナの影を見ながらエンキはつぶやいた。
 実った麦の穂は、この太陽よりも黄金色をしているのだ。
「絶対に、見られる。だってイシュタル様のご加護があるんだから」
 ユーリが成功すると言ったのだから、必ず成功する。
 ユーリが5年でやり遂げて欲しいというのだから、それは成し遂げられるのだろう。
 すでにそれはエンキの中で確信になりつつあった。
 くるりとファナが振り向く。逆光で表情が見えないまま、強い語気が返される。
「井戸を掘っているのはあたしたちよ。だから、小麦はあたしたちが実らせるの」
 身を翻したファナの姿を、エンキはただ驚いて見送るしかなかった。
     

                

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