Tirta D
第五章 ティエルタ 前編
賑やかな笑い声が上がる。ファナは満たされた素焼きの壺を持ち上げた。
「大丈夫かい?」
井戸端に腰掛けていた女が顔を上げる。井戸に投じられた荒縄をたぐり寄せる手を止めて、女は額の汗を拭った。
「大丈夫よ、まだやっと半分だもの」
食事時までに水瓶を一杯にしておかなければならない。
すでに近隣の村の男達のほとんどが井戸掘りに従事している。食事時には交代制とはいえ、それらの男が一斉に押し寄せてくるのだ。
「まだまだかい」
うんざりという口調ながら、女の声は明るかった。辛いはずの水汲みも、集まる女達の間では軽口がたたかれる。
ファナにしても、ざあざあと音を立てて注ぎ込まれる水を見ると心が躍った。
水が飛沫をあげて流れるのを今までに見たことがなかったのだ。
「こんな風に水が手にはいる時が来るなんてねえ」
ファナの心を見透かしたように女が言う。
「イシュタル様のおかげだね」
うなずきかけた顔を逸らすと、ファナは壺にかけた腕に力を込めた。
「この井戸は村の男達が掘ったんだよ」
額に汗して埃まみれで働いているのは村の男達なのに、誰も彼もがあの女神に感謝の言葉を口にする。
女神が土塊の一つも掘り返したと言うのだろうか。
唇をひき結び、腕にずっしりと重い壺を引きずるようにして運び始める。
男達が井戸掘りの人足になり、女達が賄い方にやって来るようになると、必然的に今まで村の主な産業だった放牧は子どもの仕事になった。
ファナの幼かった弟も今頃は足場の悪い山道を山羊を追って歩いているのだろうか。
数ヶ月前に現場にやってきた叔父はすまなそうに頭を下げた。
どうしても食べるものがなくってね。
ここで働けば、その日一日の食料が手にはいるのだ。
ファナにだって分かっている。いくら山羊を育てても、毛を刈りそれを食料と交換しなければ食べるものは何もない。
山羊の毛を刈ることが出来る時期は一年のうちでもほんの一時期だ。それまでは飢えをしのぐ手段などありはしない。
それに、ここで働く者の表情が明るいことにも気づいている。
埃と汗と泥にまみれながらも、男達の目は輝いている。
「あと数本井戸が湧いたら、小麦の栽培が出来るそうだ」
聞こえた声に足を止める。
数人の人足が道具を抱えて通り過ぎるところだった。
井戸を掘るための貴重な道具は作業終了後に集められて数えられ、保管される。
あれは『鉄』というのだと、大人達が囁いた。
まるで魔術を使うように、土に食い込んでいく金属なのだと。
あの神のもののような道具を与えて下さったのはイシュタル様だと。
それでも、それをふるうのは人足達だ。
自分たちが額に汗して働いた成果を、なぜ自分たちの成果だと認められないのだろう。
ファナはかまどを燃やす熱気が吹きあげる調理場に近づいた。
窓の外の水瓶にくんできた壺の中味をあける。
「ごくろうさん、ファナ」
薪を抱えようとしていた親方が顔を上げた。いつも火をのぞき込んでいるせいで親方の顔は赤く焼けててらてらと光っていた。
「知ってるかい、ファナ」
親方は大きな口を開いて笑った。
「おまえの好きな学者さんがまた来るよ?」
「あたしの好きなって、誰よ」
ファナはつんと顎を突き出した。
いまでこそ同年代の少女達も働きに来ているが、最初は賄い方の中ではファナが一番の年少だった。だから親方に目をかけてもらっているのは分かっている。
だが、その目のかけ方には時々はこういったからかいも含まれるのだ。
「誰って、そりゃ」
「ファナが好きな人って誰?」
はしゃいだ声が上がる。同じように水瓶を抱えた少女たちが目を輝かせて身を乗り出している。
食い扶持を稼ぐために親に送り込まれた娘達は、同年代が寄り集まることで存外にこの生活を楽しんでいる。ところかまわず咲き始めるおしゃべりの花に、親方の叱責が飛ぶこともよくあった。
「アグンがファナのいい人だったんじゃないの?」
「学者さんって、都から来た人?」
「違うってば!」
ファナは乱暴に言うと、背を向けた。
こんなところでエンキの話を持ち出すなんて馬鹿げている。
そりゃ、エンキはファナの知らないいろいろな話をしてくれる。けれど、彼はちゃんとした貴族の家柄の偉い人なのだ。
それに・・・と、ファナは唇を噛んだ。
エンキの好きなのは『イシュタル様』だ。
イシュタルの話をする時のエンキは、頬を紅潮させて目を輝かせるのだ。
馬鹿みたいだ。イシュタルは皇帝陛下と結婚しているのに。
井戸に戻ったファナはまた壺を差し出した。
「学者さんがやってくるって」
愛想なくそれだけを伝える。エンキが来ると言うことは、ここに数十人の兵が駐留するということでもある。それなりの心づもりも必要だった。
「じゃあ、もっと水を汲まなきゃね」
水汲み女は汗で張りついた髪をかき上げると、たぐり寄せた桶から壺へ水を注いだ。
「いよいよ水路が完成するのかね」
女の言葉にファナは首をかしげた。
すでに村が掘りあげた井戸の数は100を超えると言う。そのうち水が湧いたのは10にも満たないが、年に数度視察にやってくるエンキはそれでも構わないのだと言っていた。
この村と同じように、井戸を掘っている村がいくつもある。
それらの村の井戸の底を繋いで地下に水路を造り、水の豊富な山脈の裾から水を引いてくるのだと。
5年後には小麦が実るようになる。
エンキはそう言った。
ファナはわずかにふくらみを持ち始めた自分の身体を見下ろした。
相変わらずやせっぽっちではあったけど、身長は少し伸びた。
初めて女神が現れた日から3年の月日が流れている。
あの時、人足を集めていると言った女神の言葉に不満の声を上げた者達は、今は水の溢れる井戸と、規則正しく配給される食料に満足している。
でも、水路が完成してしまえば配給も止まるだろう。人々は職を失い、麦が実らなければまた荒れ地に山羊を追う日々が繰り返されるのだ。
施政者達の施しはいつだって気まぐれだ。
「本当に、小麦が実るのかな?」
思わず漏れた言葉に、女が笑い出した。
「あたりまえだろう、ご覧よ。井戸だってこうやって掘れたじゃないか。大丈夫、イシュタル様が守って下さるんだから」
また、これだ。
エンキが難しい言葉をいくら並べて説明しても、最後には女神の名前が持ち出されるのだ。
イシュタル様がついてくださる。
あの、女神になにが出来るというのだろう。
かあさんを助けてくれなかったくせに。
ファナはまた歯を食いしばり重い壺を持ち上げる。
やって来た軍勢は予想を超えた。
定期的に食糧を補給してくる荷駄や、作業の進行状況を確かめに来る技術者たちとは桁の違う隊列が地平に姿を現したのだった。
光り輝く軍馬の列の上に翻る軍旗をファナは見て取った。
深紅の獅子。
「イシュタル様だ!」
物見に立った人足が叫びながら走り込んでくる。
作業中の男も女も、皆が手を止めて走り出す。
「イシュタル様がいらっしゃった!」
まだ遠いところにいる隊列に向かって手を振る者がいる。
ファナは小麦で満たされた籠を無言で持ち上げた。
出迎えに出るつもりはない。みんな騒ぎすぎなのだ。
第一、かまどでは火が燃えさかっているというのに、見る者がいなくなっては、今日の分のパンがみんな焼けこげてしまう。
「ファナ、あんた見に行かないの?」
同じ年かさの少女が息せき切って訊ねる。
「いかないよ、あんた行きたいの?」
「ねえ、ここ、見といてくれる?」
話しながらもそわそわと少女の顔は村のはずれに向けられていた。
「行ってきたら?」
そっけなく言うと、ファナはかまどにかがみ込んだ。
馬鹿げている。確かに、イシュタルはこうやって食料を与えてはくれたけど、それがなんだって言うのだろう。
働く人がいなければ、井戸だって掘れないのに。
だんだんと高くなる歓呼の声から耳を塞ぐようにして、ファナは火を睨み付けた。
照り返しが熱い。まるで母の葬儀の日のようだ。
あのやせ細った母が土の底に埋められるのを見ていた時も、ゆらゆらと立ちのぼる熱気が頬を焼いた。
イシュタルなんてなにもしてくれないじゃない。
「おおい!」
すぐ外を男が大声をあげて走っていく。
「タイヘンだぁ!誰か来てくれ!」
ほとんど裏返りかけた声に、ファナは顔を向けた。
土で汚れた人足が、腕を振り回しながら叫んでいる。
「井戸が崩れた!子どもが中にいる!」
弾かれたように立ち上がる。
事故だ。事故が起こったのだ。
イシュタルの騒動で人々が持ち場を離れていたこの時に。
ファナはかまどのそばを離れて男の後を追った。
「ねえ、子どもって、誰?」
井戸掘りに従事している子どもは少ない。井戸掘りには技術がいるし、よほど食うに困った家の子どもしか人足には志願しない。
でも、アグンは別だ。
アグンは作業が始まった時から、井戸掘りに参加していた。
まあ、俺が一番の熟練ってやつかな?
夜に寝泊まりする小屋の中で得意そうに鼻の頭を擦っていた。
走りながらも振り向いた男は、ファナも顔を知る男だった。
「アグンだよ!アグンのヤツが!」
最後まで聞かずにファナはきびすを返した。
アグンの作業している井戸は知っていた。
あそこはとくに掘りにくい地盤だから。
朝の食事時に、ファナに木の椀を突き出しながらアグンは言った。
俺が行かなきゃ、な。
ファナはにじむ涙を袖でぬぐいながら走った。
アグンになにかあるなんて信じられない。
彼はあんなにも女神にために働くのを誇りに思っていたのに。
また、女神はファナの大切な人を奪うのか。
井戸のまわりでは男達が数人で土を掘り出していた。
手渡しで運び出される土塊の多さに、ファナは息を止めた。
あれほどの土がアグンの上に崩れ落ちたのだ。
「見えたぞっ!」
声が上がる。ひときわ大きな岩を取り除くと、地面にぽっかりと穴が空いた。
人足頭が穴のふちに膝をついてのぞき込んだ。
「ありがたい、井戸は埋まっていなかったか」
遠巻きの人垣をかき分けながらファナは走り寄った。
「アグン、大丈夫か?」
人足頭の声に、井戸の中からは恐ろしい沈黙しか帰ってこない。
「アグン!」
駆け寄り立ちつくすファナの前で、人足頭は頭を振った。
「怪我をしているのかもしれない」
「早くアグンを出して!」
ファナの肩に手のひらが置かれた。
アグンと同じ作業班にいた男だった。
「ここを降りていくのは無理だ。また崩れるかもしれない」
ファナの頬が瞬時に紅潮する。
「アグンを見捨てるの?いいわ、あたしが降りる!」
手を振り払い、いまにも穴に飛び込みそうなファナを慌てて男の手が引き留めた。
「無茶を言うな」
「あたしが降りてアグンを連れてくるわ!」
「あんただって死んでしまうぞ?」
ふりほどこうとするファナと、男のもみあう背中に静かな声がかけられた。
「あたしが、降りるわ」
透き通った声だった。
ざらついた砂の中、皆がひび割れた声で言葉を交わすなかで、その声は一陣の涼風のように流れた。
動きを止めた人々の間で、その声の主ははらりと肩に巻かれたマントをはずした。
細いなだらかな肩が露わになる。
「あたしが降りて助けるわ」
黒い軍馬がすぐ後ろで首を振り蹄を踏みならしている。隊列を離れて馬を駆ってきたのだろうか。
「なんで、あんたが」
ファナの視界が怒りで赤くなる。
なぜそんなことを言い出すのだろう。なんのつもりで。
「イシュタル様がそんなことをする理由があるの?」
腕に巻き付けられたブレスレットをはずしながら、イシュタルはファナを見た。
間近で見る女神は、澄んだ水のように静かな表情をしていた。
「縄をつけて降りるわ。下についたら合図するから、みんなで引き上げて」
「無茶です、おやめください」
うわずった声で従卒がとどめる。
「大の大人ともう一人を支えるには、縄は弱いかもしれないでしょう」
「なら、あたしが降りる」
ファナの目にはイシュタルは見たこともない白い滑らかな肌を持つ女に映った。
いちども埃にまみれて働いたことがないような。
肩や腕の細さは、ファナと変わりがない。
確か皇帝との間には数人の子どもがいたはずなのに、子を産むたびにくたびれて縮んでゆく村の女たちとは違ってまるで少女のように見える。
「アグンはあたしの友達なのよ」
だから、イシュタルの手なんて借りたくない。
きらりと光る黒いまなざしがファナを射た。
「子どもとはいえ一人を支えるのは、あなたの腕じゃむりだよ?」
取り上げた縄を腰に巻き付けると、気圧されて立ちすくむ男達を見まわした。
「縄を二度引いたら、引き上げてね」
慌てて縄のはしを掴んだ男達にうなずくと、小柄な身体が穴の中に消えた。
ファナは崩れるように膝をついた。
イシュタルが、なんの躊躇もなく井戸の中に降りた。アグンを助けるために。
どうしてそんなことをするのだろう。かあさんを助けてくれなかったくせに。
男達は真剣な顔で手の中の縄を睨みつけている。
地面にとぐろを巻いた縄がするすると井戸に飲み込まれていく。
井戸の不定型な縁がぱらぱらと音を立てて崩れている。
ふいに、ファナにはもうイシュタルが地上に姿を現さないのではないかと思えた。
暗い地の底で、傷ついたアグンと共に閉じこめられて。
「ああ・・・」
見物人の間から、悲鳴が漏れた。
「イシュタル様が・・・」
ファナも知らずに手のひらを握りしめた。
男達の手の間の縄がぴんと張られる。限界にまで伸びたのだ。
助けて。どうか、アグンを。
祈るしかなかった。あの闇の中でなにが行われているのか。
こんなふうに待たされるのなら、自分が降りていけばよかった。
そう考えて、ファナは身震いをした。
真っ暗な穴の底へ?いつ頭上に土が崩れてくるかもしれないところへ?
怖かった。
もしかしたら、探りあててもアグンはもう生きてはいないのかも知れないのに?
頭を振ったファナの前で男達の背中が緊張した。
「合図だ!」
「縄が動いたぞ!」
たちまちのうちに、かけ声が上がり縄がたぐり寄せられる。
周囲からも安堵のため息が上がる。
「もうすぐだ!」
「早く!」
ピンと張りつめた縄の先にアグンがいる。
立ち上がったファナの目に、土ぼこりと共に井戸の縁が崩れるのが見えた。
「井戸が!」
「引け!引くんだ!!」
地滑りの音を立てながら、井戸の口がふさがっていく。
ファナの喉から悲鳴がほとばしった。
埋まってしまう、アグンも、イシュタルも。
もう、終わりだ。思わず目を覆ったファナの耳に男達の怒号が響いた。
「頭が!もう少しだ!」
「早く!」
「イシュタル様!!」
咳き込む音が聞こえる。
安堵のどよめきが聞こえてからようやくファナは目を開いた。
埃まみれの固まりがある。
それが寝かされたアグンの上にかがみ込むイシュタルだと分かるのにしばらく時間がかかった。
黒かった髪が真っ白になるほど砂をかぶったまま、イシュタルの指がアグンの首筋にあてられ、胸元に耳を押しあてる。
「よかった、生きてる」
その声でファナは我にかえった。
「アグン!」
這うようにして近寄る。
イシュタルが顔を上げた。土と埃にまみれて、頬の上を茶色い筋が流れている。
怪我をしているのだと気づく。
あやうく生き埋めになりかけたのだ、女神とたたえられる人が。
ファナはどんな顔をしていたのだろう。
汚れた顔のまま、イシュタルが安心させるように笑った。
「大丈夫、生きてるよ」
そして、伸ばされた手がファナの腕を軽く叩いた。
温かくて優しい手のひらだった。
その温かさが、ファナの中の何かを溶かした。
頬を熱いものが滑り落ちる。まるで堰を切るように、次から次へと。
「大丈夫、すぐによくなるから」
イシュタルの手がなんども優しくファナの髪を梳いていた。
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