水辺の揺りかご


「顔を上げるがよい」
 女官だろう、硬質の声がかけられる。
 私はゆっくりと言われたとおりにする。
 開け放たれた窓から光が溢れている。
 白くしつらえられた調度の間に、大きな寝台が見える。
 寝台には枕を背にあてがって身を起こしたあの方の姿。
「おまえはこれから妃殿下と皇子殿下付きの神官としてお仕えするのだ」
 年かさの女官は尊大に言うと、その高く結い上げた頭をあの方のほうへと傾ける。
「よろしいですね、ナキア妃?」
 あの方は、かすかにうなづいた。
 水色の瞳が私を映す。
「名前は・・・なんと言うの?」
 私は頭を垂れる。
「ウルヒ・・・シャルマと・・・」
 
 連れて逃げてと叫んだのは、揺れる瞳だった。
 ともすれば巻き込まれてしまいそうになる激情が、瞳の奥からほとばしる。
 一瞬、心が揺らいだ。
 伸ばされた手を掴もうとして、かろうじて身を引いた。
 触れてしまえば、流される。
 あの時の叫びが、今も耳の奥に残っている。


 
わたしはおまえの子なら産める。


「ウルヒ、これが皇帝陛下の御子です」
 そう言って、うら若い妃は腕の中に抱えた子どもに視線を落とす。
 私は静かにそばにより、無心に眠る幼子を見る。
 片手に納まる小さな頭と、軽く握られた小さなこぶし。
 ふわりと丸い顔を縁取るのは金色の髪。
「・・・瞳の色は深い青」
 ナキア妃は指先で柔らかい頬をつつく。
「陛下の母君の家系だそうです」
「とても、かわいらしい御子ですね」
 私はすやすやと眠る赤ん坊を見守る。


 わたしは皇帝の子など産みたくない。


「それにとても健やかそうで」
 ナキアさまの指が愛しげに幼子の髪を梳く。
 この方は女としての幸せを手に入れられたのだと、どこかで安堵する。
 あの日、燃え立つかのように見えた瞳は、今は静かに澄んでいる。

 流されたいと、ほんのひととき願ったけれど。

「皇帝陛下もお喜びでしょう」
 ナキアさまは微笑んだ。
「陛下の御子ですから」
 そして、まるで野の花を望むように口にする。
「だから、わたしはこの子を皇帝にします」
 水色の瞳が向けられる。
 血の叫びを吐いた唇が、微笑みの形にほころぶ。
「わたしのたったひとつの願いです」


 わたしをこの帝国から連れて逃げて。


 私は幼子の胸がかすかに上下しているのを愛しく思う。
 金の髪、青い瞳。
 少しふくよかになった腕で、ナキアさまは小さな皇子を揺らした。
「ジュダ・ハスパスルピ・・・」
 母の顔で眼を細める。
「わたしはお前を皇帝にしよう」


 おまえと暮らせるなら、みんな捨てる。


「ジュダ殿下・・・」
 私は幼子の前に膝を着く。
「あなたに至高の冠を・・・」

 それがどんなに困難ということかは、分かっている。
 けれど私は。


 わたしを連れて逃げて。

 
 あの日薄暗い部屋で突き放した少女は、もういない。
 光に溢れる産室で、静かに燃え始める姿。
 ゆるく編んだ髪を肩から垂らして、皇帝の六番目の皇子を抱いた妃が笑う。
 
 私は厳粛な誓いをたてるためにまぶたを閉じる。
 他にはなにも与えることができないのだから。
 あなたのたったひとつの願いを叶えよう。


 たとえこの命を投げだすことになっても。



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