青猫


 老人は震える指で髪を梳く。
「美しい髪だ・・・」
 少年は奥歯を噛みしめる。
 肩から簡素な衣が滑り落ちる。
 眼にすることはないけれど確かにそこに刻まれているはずの傷跡を、ねじれた指が辿る。

 ウルヒ。
 老人が少年に与えた名前だ。
『おまえはこれからこう名乗るがいい』
 数代前にこの国で偉業を為した皇子の名だと聞く。

「可哀想に・・・」
 いつもの言葉を老人が口にする。
 同情されるのが心地よいわけではない。
 けれど、その言葉は不思議に老人と少年の間に連帯感をもたらす。
 皇族の血を引きながら街の片隅の神殿に押し込められた老人と、異国から流れてきた少年と。
 老人が哀れむのは、己の境遇なのかも知れない。
 けれど擦れ合う熱がやるせなさを一時だけ忘れさせる。
 辿る指が意志を持ちはじめる。
 ウルヒと呼ばれた少年は、ゆっくりとまぶたを閉じる。

 生き残るために耐える時間がはじまる。
 従順に身体を差し出しながら、瞼の裏の暗闇を見つめる。
 それが続く限りは、日々の糧が与えられるのだから。


 身体から失われた部分を晒すように、少年は全裸で立たされる。
 威勢の良いかけ声。
 多少傷物だが上玉だと、商人が口上をのべる。
 興味深げに突き刺さる視線。
 瞳が焼けるのもかまわぬように、少年は照りつける太陽を睨む。
 生きることは耐えること。
 耐えに耐えて、生きる意味がどこにあるのだろうと心のどこかで感じながらも。


 それでも生にしがみつけばなにかが見つかるのかも知れないと、老人は言った。
 ふっかけられた法外の値段を確かめるように、少年の肌に手を這わせながら。
 だからワシは生きながらえている。
 少年はまぶたを固く結ぶ。
 肉に分け入る老人の力は弱々しい。
 命を投げだすときには、なんのために投げだすのか考えろと、荒い息の下で繰り返す。
 尊厳のため。
 それはとうに失ってしまったか。
 少年は自嘲する。

 若いお前にそんな言葉は似合わないと老人は言う。
 これからどんな未来が開けるのかも知れないのに。
 少年は訊ねる。
 あなたに抱かれることでどんな未来がもたらされるのだろう?

 老人は眼をしばたかせる。
 一方的な交歓の後で息を切らせながら。
「ワシにできることはなにもない」
 そして、少年の髪を梳く。
「神官の教育をしてやろう」
 神官なら、なんとか生きるすべはあるだろうから。


 老人の想い者として過ごした数月が過ぎ、少年は下級神官の衣を身につけて立つ。
「縁者は他には?」
 書記官が動かなくなった老人の抜け殻を見下ろして訊ねる。
「おりません」
 ウルヒはまっすぐに書記官を見返す。
 初老の書記官はため息をつく。
「ここにはすぐに次の神官が赴任する。大神殿ならいくらか職があるだろう。紹介状を書こう」
 粘土板を取りだして、ウルヒを見つめる。
「名前は?」
「・・・ウルヒ・・・」
 朝が来る前に、あっけなく一人で逝ってしまったかっての庇護者はまるで枯れ木のように見える。
「ウルヒ・シャルマか・・・」
 書記官はつぶやくと、ペンを走らせる。
 自分のことを書かれているのに、他人のことを耳にする気持ち。
「神官殿の部屋から、お前を推薦する文書も見つかった」
 それから、手を止めて暖かみのある声をウルヒにかける。
「泣きたいときは我慢しなくていい」


 まるで魔法をかけられたように、頬がなま暖かく濡れるのをウルヒは感じる。
『生にしがみつけば何かが見つかるのかも知れない』
 老人の言った言葉が繰り返される。
 片隅で干からびてゆくはずの老人は、少年の涙を手に入れた。
 それは、愛情や友情とは違う、ただのなれ合いなのかも知れないけれど。


 耐える意味はまだ見つからない。
 だからこそ『なにか』を生き抜いて、見つけてみよう。
 ウルヒは再びまぶたを閉じた。


                        NEXT「水辺の揺りかご」

       

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送