その姫、バビロニア出身につき(前編)

                        by千代子さん

第一章 恋する乙女

「今日も皇帝陛下はわたくしをお呼び下さらないのね…」
 後宮の一室で、姫は大きなため息をついた。
「初めてお会いしたとき、あの方のお髪に日の光があたって…とても美しかったわ」
 その髪を我が指に絡ませ、さらさらと落ちていくであろう金色の筋を眺めたいと思う。
「ああ、陛下…」
 胸のうちを熱く焦がす想いに耐え切れなくなった姫が、枕を抱きしめて寝台に倒れこんだ、そのときであった。
「イシン・サウラ姫さまっっっ!!!そろそろお着替えくださいませ!いつまでたっても掃除ができませんわっっ!!」
 雷を落としたような金切り声が部屋中に響き、イシン・サウラはしぶしぶベッドの上に起き上がってあぐらをかいた。
「…うるさいわよ、おまえ、侍女の分際でわたくしに指図するっていうの!?」
 頬が赤く、見るからに健康そうな若い侍女は、イシン・サウラの言葉に耳も傾けず、姫が座っているベッドのシーツをむんず、と掴むと、かまわず引き抜いた。
「きゃあああ! あんたはどうしてそんなに無神経なのよっ!!」
 おかげで床に落ちたイシン・サウラはベッドによじ登って侍女をなじった。
「しかし姫さま、お掃除をいたしませんと」
 顔の表情一つ変えずに言う侍女に、イシン・サウラは少しふて腐れた顔をしながらもすぐに思い直し、
「そうね、皇帝陛下がお越しになられるかもしれないものね」
と胸の前で少女らしく手を組んだ。
「いいえ」
 侍女はマクラカバーを外しながらこともなげに言った。
「皇帝陛下がこちらへお渡りになられることはまずございますまい」
「あら、まぁそうね。わたくしが陛下のご寝所へお呼ばれになるんですものね」
「それもございませんねぇ」
 最後の枕カバーを外して洗濯籠に突っ込みながら、侍女はさらに続ける。
 「皇帝陛下はイシュタルさまにご執心ですもの。ほかの姫君さまにお目を移されるなどとてもとても…」
「キィィィィィィッッッ!!!おまえは本当にしつれいね!」
 イシン・サウラは洗濯籠をひっくり返して、せっかく侍女がきちんと入れたばかりの洗濯物を引っ掻き回した。
「おまえもわたくし付きの侍女なら、どうすればわたくしが陛下のお目に止まるか考えなさい!」
 シーツをびりりと破きながら、イシン・サウラは半狂乱になって叫んでいた。
 が、突然はたと思いついたようにぽんと手を打って、
「そうだわ、今宵は元老院が宴を開くと言っていたわね。その宴で陛下に認めていただけるようにすればいいんだわ!」
とベッドの上に立ち上がった。
 皇帝ムルシリ二世の正妃候補としてはるばるバビロニアからやって来たイシン・サウラであったが、期待した伯母ナキアの口添えもなく、皇帝の寝所へはまだお呼びがかからなかった。
 王女として生まれて、望めば叶えられなかったもの一つなく育った世間知らずなものだから、すっかり自分が皇妃の御位に就くことができると信じ込んでしまっている分、始末が悪い。
 それでもやはり他の候補の姫たちに遅れをとってはならぬという焦りはあって、しかし王女のわきまえからあまり下品な振る舞いはできないし、どうしたものかと考えていた矢先の、宴の誘いだった。
「ねぇ、陛下はどんな服がお好みかしら。やっぱり伯母さまにお伺いを立てたほうがよろしいんじゃなくて?一応、陛下とは義理とはいえ母子の間柄ですもの」
 イシン・サウラが呑気な声で衣装箱をかき回していると、シーツの後片付けをしながら侍女は、
「陛下のことはイシュタルさまが一番ご存知なのではありませんか?」
 イシュタルさまにお聞きすればよろしいのに、となんとも興味なさそうに糸くずを拾っている。
 イシン・サウラは手近にあった机を足蹴にしてしばらく怒りを発散させていたが、侍女が、
「今宵のお衣装でしたら、こちらをお召しなさいませ。宝石はこちらですわね」
と並べたので大人しく椅子に座った。
「これは…?」
 イシン・サウラが取り上げたのは、毛糸で編まれた袋のようなものだった。
「腹巻ですわ。お腹を冷やしてはなりませんもの」
「どうして、腹巻なんかするのよ」
「わたくしの伯母からの言伝でございますから」
「ふうん」
 摘み上げた腹巻には興味なさそうにイシン・サウラは腹巻をほっぽった。
「まぁ姫さま、なにをなさいますか。きちんとお付けなさいませんと、お腹を壊されますわ」
 足元に投げられたそれを拾って丁寧に差し出す。
「いやよ、そんな古臭いものは。チクチクして痛いじゃない」
「…皇帝陛下に嫌われてもよろしいのですか?」
「え…」
「陛下は…腹巻をする女性がお好きだそうです」
「………」
 これはもちろん侍女の狂言だったが、陛下の名の前に頷かざるを得ないイシン・サウラを見るのは面白かった。




第二章 乙女、芸に感動

「衣装は調えても、陛下のお目に止まるためにはこれだけじゃ駄目だわ。なにかいい方法はないかしら…」
 イシン・サウラは熊のように部屋中を歩き回りながら、ぶつぶつと口の中で同じ言葉をくり返した。
「ねぇ、なにかいい案はないの?」
 隅に座って一心に編物の針を動かしている侍女に問うてみる。
「そうですねぇ……」
 侍女はさほど大したこととは受け止めていないようで、ぼんやりとつぶやいたまま答えを出さないのが癇に来たのか、イシン・サウラは侍女の手から編物を取り上げた。
「あんた、わたくしの言うことも聞かずに何をやってるの!第一さっきからなにを編んでるのよっ!!」
 侍女は飛び跳ねながらイシン・サウラの手から編物を取り戻して、網目がほどけていないかを確認しながら、
「これは姫さまの靴下でございますよ。女の冷えは足元からきますからね」
とすでに出来上がった片方のものを懐から取り出して見せた。
「靴下ねぇ…それよりもどうやったら陛下のお目に止まれるのか、それを考えてちょうだい」
 編物が自慢の侍女にとって、毛糸を相手にしているときは心が安らぐものの、我が仕える姫さまにこのすばらしい毛糸の価値が判っていただけないというのはいささか悲しい気もするが、そこはさすがに知らん顔をして毛糸の束を隅に押しやった。
「そうですねぇ…ご正妃候補の姫さまがたを見わたくしますと、まずなんと言っても後ろ盾強力なのは伯母君さま皇太后陛下においでの姫さまに違いございませんが、アッシリア国王もまことに友好的とうかがっておりますし、姫君さまも実にご聡明のご様子、アルザワの姫君さまも幼くお見えでございますが、海洋国家のアルザワと縁戚になることはヒッタイトにとって好条件でしょうし、また皇家出身の姫君さまがたは皇帝陛下ご母堂さまの例もございますから、お小さい頃からお国の政治を最前列で学ばれた姫君さまがたなら即日皇帝陛下のお手伝いも適いましょうし、お国のことを一からお教えしなくてすむことを考えればよいお相手ばかりなのではございませんか」
と一気に言った後、
「またアッシリアの姫君さまはお小さい頃から政治学帝王学など学ばれた由うかがっておりますし、アルザワの姫君さまにも戦のいろはを学ばれておいでだとか。
その点、イシン・サウラ姫さまは……のんびりとお育ちなさいましたからねぇ」
と暑くなったのか手で顔のあたりを扇いだ。
「あんた、わたくしに喧嘩売ってるの!? それじゃあまるでわたくしが何もできないみたいじゃない!!」
 そのとおりで、とはさすがに言わなかったが、侍女は少し考えてから、
「姫さまの特技と申しましても…水芸くらいしかございませんからねぇ」
と眉を寄せた。
 水芸、と聞いた瞬間、イシン・サウラは天の声を聞いた気がした。
 どうしていままで思いつかなかったのかしら、こんなに素晴らしいものを持っていたのに、と思えば目の前がぱぁっと明るくなった。
「そうよ、それよ!!」
「それ、でございますか?」
「水芸をご披露すれば、皇帝陛下もきっとわたくしを気に入ってくださるわ!」
「それは……」
「そうと決まったら今夜のために特訓よ♪」
 目の前が開けてるんるん気分のイシン・サウラに、侍女ははたして水芸で陛下の気を引けるのかしらと思ったけれど、それは言わなかった。
 バビロニア王家の秘儀は水芸と言われており、またそれは王族としてのたしなみであった。
 しかしそれを知るものはごくわずかで、無理に探ろうとすると命の保証がないとも囁かれていた。
 イシン・サウラの得意とするところは、水を自在に操って曲芸をするくらいのことだが、飽きやすく面倒くさがりの性格が災いしてあまり上手とはいえなかった。
 ましてや伯母ナキアはこと水に関しては右に出る者なしとまで言われているから、その伯母の前で故国バビロニアの恥になるようなことはできぬ、と侍女は考えている。
 しかしそれが姫さま育ちのおおらかさなのか、侍女の思案などおかまいなしで、イシン・サウラはいそいそと小道具の仕込みに入っている。
 わかりました、わたくしも姫さまに生涯お仕えすると心に決めた女ですもの、姫さまが思われたことは必ずや実現させてご覧にいれましょう、と侍女も捻じ曲がる気持ちを抑えて何とか心を決めると、衣装箱に手をかけた。
「姫さまにはこのお衣装が一番お似合いでございますね」
 長い髪によく映える、淡い水色のドレスだった。
「では、これに似あうものをお見せしなければ」
 言うとイシン・サウラは手を組んで目をつむり、じっと念を入れてから天を仰いだ。
「はああぁぁぁぁ!」
 口を大きく開けて叫ぶ。
「ふんっ!!」
 屈伸運動の要領で身体を動かしはじめ、それがだんだん早くなり、やがて大きく広げた口からぽこぽこと水の玉を出した。
 5つほど出すと、お手玉のようにくるくると回してみせる。
 顔の上で回る五つの玉、それだけ見ればいいのかもしれないが、どうしたって大口を開けた王女の恥じない顔が目に入ってしまう。
「どほ?ほのげひで、へいはのおほほろほ、とぅかへるはひは?」
 イシン・サウラは開いているために上手く言葉を仕えない口で、侍女に助言を求めた。
「『陛下のお心をつかめるかしら』とおっしゃっておいでですか…?…無理でしょうね…」
 どうみても美しいとは言えない芸は、ただひとつ、イシン・サウラが身に付けているものであった。
 最後は聞こえないようにぼそりとつぶやいたけれど、侍女はこんなことでは到底陛下に見初められるはずがない、と思った。


               つづく

         

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