呼ぶ声 A


 ハディはいらいらしながら後宮への門をくぐった。
 後ろからついてきているはずの妹たちを振り返らずに大股に歩を運ぶ。
 離宮だとはいえ、頻繁に行われる神事のため皇帝が滞在することの多い建物は広い後宮を擁している。
 出迎えた侍従長が慌てて追いついてくる。
「・・・イシュタル様はいかがです?」
 声には怒りが滲んでいるのだろう。
 ハディよりはるかに年かさであるはずの侍従長は額の汗を拭いながら弁明する。
「そんなに酷いご病気でもないようなのです」
「何日も伏せっておられるのに?」
 そんな主人を放っておいてのんびり里帰りをしていた自分に腹が立つ。
 後宮からの帰官命令はなかった。
 家族で水入らずで過ごせという配慮だとは分かっている。
 それでも、大切な女主人が病を得たというのに連絡一つ無かったことに恨み言も言いたくなる。
「昼の間は食事も摂っておられます」
「そして夜は発熱して苦しまれるのね?」
 後宮出入りの商人が四方山話に知らせてくれなければ、自分たちはまだ父親のそばで何も知らずにいたことだろう。
「ユーリさまはきっと心細い思いをされていたはずですわ」
 妹が侍従長を非難するように声を上げる。
 侍従長は格下の女官に責められたことに気を悪くしたようだった。
「陛下はお知らせするなとお申し付けだったので」
 ハディは冷たい視線を投げた。
 例えば皇后がなにかを望めば、それが気まぐれであっても即座にそれは実行されるか獲得されるだろう。
 そのことを知っているからこそ、女主人は滅多に己が欲するものを口にしない。
 側に仕える者は言下に沈むうっすらとした望みを読みとらなければならない。
 自分たちが何よりもその技に長けているという自負がある。
 その技が後宮を機能させている理由でもある。
 どうせこの侍従長はそんな自覚を持たないのだろう。
 この気の利かなさはそうでなければ説明がつかない。
 病を得て不安なときだからこそ、女主人は自分たちにそばにいて欲しいと切望しているはずだった。
 ハディは、ユーリが望めば臨終の父親を残しても馳せ参じるつもりでいる。
 妹たちも、父親だってそのことについてはなんの疑問も挟まないだろう。
 忠義を尽くすとはそういうことなのだ。
「皇帝陛下がつきっきりで看病されているのです」
 侍従長は気圧されながらも言葉を継いだ。
 だからこそ、とハディは思う。
 他の者に対してはあの至上の地位につく女性は心遣いをしてしまう。
 何も気にせずに甘えられる相手は数少ないのだ。
「もし、ご病気が皇帝陛下にうつったらどうするのです?」
 侍従長は黙り込んだ。
 おそらく、そのことについては当の皇帝に対しても何度か進言はあったはずだった。
 それを退けたのは皇帝本人だろう。
 皇帝の手から最愛の皇妃をまかせられる女官は、後宮に不在だったのだ。
 主の病のせいか、いつもよりも更に静まりかえった最深部にたどり着く。
 回廊に人影が少ないことに気がついた。
「他の女官達は?」
「なるべく静かにするようにと皇帝陛下のお申し付けなので」
 女官長の攻撃から唯一身を守る武器のように、侍従長は勅を持ち出した。
「そう、では侍従長もお控え下さい」
 言い捨てるとハディは重厚な扉に向かった。


 参内を伝えて扉を押し開くと、正面の寝台に上体を起こす姿があった。
「ハディ?双子も・・・」
 思ったよりは元気そうな声が上がった。
「ユーリさま、お加減はいかがですか?」
 背中に積み上げた枕をあてて、ユーリは驚いた表情をしている。
 少しやつれたような気がする。
 駆け寄るように近づく。
 滑らかな頬は少し青ざめている。
「大丈夫だよ、大げさな」
「大げさではないだろう?」
 その時初めてかたわらに腰をおろした皇帝に気がついた。
 慌てて低頭する。
「夕刻になると熱が上がるのだ・・・よく戻ってきてくれた」
 カイルの声には幾分の安堵が混じっている。
「お医者様はなんとおっしゃっているのですか?」
「・・・三日前に私と遠乗りに行って雨に降られた。その時に濡れたのが原因だと思うと」
「遠乗り?」
 ハディは自分たちが父の家に帰った日のことを思い出した。
 昼過ぎから雷を伴った雨が降り出し、翌朝まで続いていた。
「ずいぶん長く雨の中を?」
「ううん、すぐに雨宿りしたの・・・朝まで」
 ユーリは大きなため息をついた。
「火も燃やしたし、そんなに冷えたつもりはなかったんだけど」
 すぐに頬を染める。
「服も濡れたままにしておかなかったよ」
 どこで雨宿りをしたのか分からないが、とりあえず二人が何をしていたのかは推察できた。
 ハディは胸の奥でわき上がる非難の感情を押し殺した。
 皇帝がついていながら、と責めるのは出過ぎたまねだろう。
 結局、自分にとってはこの国の第一人者よりは女主人に使えることの方が重要なのだ。
「疲れがたまっていたのかもしれませんね、日ごろの」
 離宮での休暇に入るにあたって片づけておかなくてはならない仕事は山のようにあって、連日遅くまで政務を執っていた。
 義務感の固まりのようなユーリになんど早く休むようにと進言したことだろう。
 そのつど休暇に入ったらたっぷり休むからと返されたものだ。
「そうだな、幸い休暇はまだあるからゆっくり休むといい」
「せっかくのお休みを寝て過ごすなんて」
 頬を膨らませたユーリの髪をカイルがくしゃくしゃとかき回した。
「お前は普段から出歩きすぎだから、ちょうどいい」
 ハディを振り返る。
「ユーリを頼めるか?私は神殿に顔を出さなくては」
「カイルだけ?」
 この地には太陽神を祭る大きな神殿がある。
 皇室の転地休養は神殿への参詣を口実に行われている。
 到着してすぐに皇妃が発熱したのなら、参詣はまだ行われていないはずだった。
「あたりまえだ、お前は病人なんだぞ?」
「でも・・」
 しばらく考え込んだユーリの顔が輝いた。
「じゃあ、ハディ達が代参するのは?」
 カイルはため息と共に頭を振った。
「ハディはお前のそばについている。気にせず病気を治すことに専念するんだ」
 ハディもうなずく。
「だって、至聖所には・・」
「ユーリさまがお元気になられましたら、神殿にお供させていただきますわ」
 膝を着き、女主人の手を取った。
 随従としてでなければ、女官は至聖所に入ることは出来ない。
 毎年ハディたちをともなってユーリがそこを訪れるのには理由があった。
「4人で揃って参りましょう・・・弟も喜びます」
 単なる近従見習いに過ぎなかった弟は、ユーリの願いによって国家の功労者としてこのふるさとの神殿に祭られている。
 命を投げだして得難い女神を守ったのだからこれ以上の功はないと言えたが。
 前線で傷を負った兵が捨て置かれるような時代に、それほどのいたわりを与えるこの国の施政者は希有な存在だった。
「はやくお元気になって下さい」
 言いながら腕を貸し寝台に横たえる。
 掛布を引き上げると、もの言いたげな瞳を覆った。
「疲れには、お休みになるのが一番ですわ」



 扉を激しく叩く音がする。
 何ごとだろう。
 街から急使が来たのだろうか。
 閂を抜く音。
 うめき声。
 大きな声がなにか言っている。


 頬に触れる感触。
 ユーリはぼんやりとまぶたを持ち上げた。
 頭上で揺れる影に息を飲む。
「あ、申し訳ありません」
 ハディが腕を素早く引っ込めた。
 落とした灯りの中で明るい色の髪がかすかにきらめいている。
「汗が酷かったので・・・」
 自分のものとは違う感覚の腕を持ち上げて首筋に触れる。
 びっしょりと濡れていた。
「夢を見ていたの・・」
 声も自分のものではないようだった。
「悪い夢ですか?」
「うなされていた、あたし?」
 ハディは首をかしげた。
「・・・お苦しそうでしたが、熱のせいでは?」
 言いながらまた乾いた布で額を拭ってくれる。
 夜着が肌に張りついて気持ちが悪かった。
「ずいぶん汗かいちゃった」
「乾いたものに替えましょうね。これだけ汗が出れば明日にも熱は下がりますわ」
 部屋のどこかで水音がする。
 ユーリが同意を込めてまぶたを閉じると、そっと掛布が持ち上げられる。
 胸元が開かれ、湯に浸した布が肌の上をすべってゆく。
 肌のべとつきがぬぐい取られて気持ちが良い。
 湯冷めしないように手早く乾いた布があてられ、日向の匂いのする柔らかい夜着が袖に通される。
「大丈夫ですか、ユーリさま?」
「・・・気持ちいいよ」
 もう一度とろとろと眠りに落ちていきそうになる。
 頭の上で囁くように言葉が交わされる。
「寝具もお取り替えした方がいいわ」
「姉さん、あたしたちが」
 寝台が軋む。
 脇の下に腕が差し入れられ、膝を抱えられると身体が浮き上がった。

『女だ』
 声が言った。
 不意にユーリは身をよじった。
「・・いや・・・」
『・・・・きっ・・・と・・・細・・・君だ・・・』
「ユーリさま?」
 怪訝な声の後、身体の下を風が通り過ぎると、乾いた夜具に下ろされた。
「どこか具合が・・・!?」
『ほかに誰か』
 喉が鳴った。
「やだっ・・」
 悲鳴が漏れた。
「お医者様を!!」
 きつく閉じた目から涙があふれ出す。


 
血塗られた抜き身に後ずさる。
「女だ」
 暗い大きな影が言う。
 戸口に動かない姿が倒れている。
 恐怖で顔がゆがむ。
 振り上げられた腕は途中で止まった。
「殺っちまうのかよ」
「・・・その前に、なあ?」
 低く笑いかわされる声。


 助けて。
 でも声は出してはだめ。



 リュイは扉に体当たりをするように廊下へと走り出た。
 医師は後宮の入り口近くに待機させられている。
 質実を好む皇帝夫妻の方針で夜の廊下は薄暗い。
 他に住人のいない扉の並ぶ前をリュイは足音も気にせず駆け抜ける。
 前方で四角い光が差し込んだ。
 開けられた扉の前に、医師が姿を現した。
「典医どのっ」
 ただならぬ足音に気がついたのだろう。
「イシュタルさまのご容体が?」
 言いながら助手に命じて道具を用意させる。
 リュイは肩で息をつきながら廊下を見まわした。
「薬師どのは?」
 薬師に与えられている部屋の扉は閉ざされていた。
 高齢の彼はまだ事の起こっていることに気付いていないのだろうか。
 リュイは頭を振ると医師を振り返った。
「先にイシュタルさまのお部屋へ。わたしは薬師どのをお起こししますので」
 若い助手を従えた医師はうなずいた。
 リュイは肩をそびやかすと薬師の扉に向かい合った。
 拳で遠慮無しに扉を叩く。
「起きておられますか!?」
 声を張り上げると、何度も扉を叩く。
 少し耳が遠くなっているのだろうか。
 いいかげん拳が痛み始めた頃、扉の向こうで気配があった。
「イシュタルさまのところへ伺候願います!」
 ぼそぼそと応答がある。
 扉が細く開くと、老人が顔を出した。
「皇后陛下のご容体が変わられたのか?」
「だからすぐに来て頂かないと!」
 いらいらしながら応える。
 リュイにしてもできればこんな時にはユーリのそばに侍っていたかった。
「すぐに来てくださいね!」
 それだけ言うと、来た道を戻り始める。
 いくら壮大にしつらえてあろうとここは離宮で、ハットウサの王宮ほどには人材は揃えていない。
 次からは随員の中に典医と薬師も入れるよう進言しなくては、と思う。
 大げさなことが嫌いな皇帝夫妻はいつも最小限の人数でことをすませようとする傾向がある。
 だが腕の良い典医と薬師は最小限に含まれてもいいはずだった。
 先ほど一気に駆け抜けた廊下は、考え事をしながら歩くと長かった。
 先行しているはずの医師の姿すら見えなくて、リュイは足をはやめた。
 発汗の量から見てもユーリの熱は上がりきっているはずだった。
 汗を拭い冷えないようにしていれば明日の朝にはすっかり治るだろうと思われた。
 けれど、急に苦しみだしたのはなぜだろう。
 高熱は時として人の心まで侵すと聞いたことがある。
 リュイは身震いをした。
 ユーリさまの心がどうにかなるなんて。
 そんなことが起こってはならない。
 自分たちは皇帝から信頼を持って皇妃の身柄を預けられたのだから。
 詰め所まで行って衛兵に声をかけ、神殿にいるはずの皇帝を呼び戻した方がいいのだろうか。
 リュイが立ち止まったのは、それに思い当たって逡巡したからではなく、裾が何かにひっかかったからだった。
 柱廊のささくれにでも触れたかと舌打ちして振り返る。
 確かめようにも、柱の幾本かおきにしか灯火は掲げられていない。
 ちょうどリュイの服の端を捉えた柱は闇の中に沈んでいた。
 裾を掴むと乱暴に引っぱる。
 布に裂け目を作るかも知れなかったが、どうせ夜なのだから分かりはしないだろう。
 抵抗は意外に強かった。
 遅れた事への姉の叱責を思い浮かべて、リュイは焦って力を込めた。
 女官のお仕着せである生成の生地は丈夫だった。ぐいぐいと引くと唐突に自由になり、リュイはよろめいた。
 被害がどれくらいなのか、暗いので確かめようもない。
 ほんの一瞬なにかが布のはしに見えたが、気にせずに歩き出す。
 あとで裂けた部分を縫い合わせなくては、と頭の端に書き留める。


「ご苦労様、リュイ」
 予想外におだやかな姉に迎えられて面食らった。
 薬師が来ないことに小言の一つも喰らうのかと思っていた。
「姉さん、ユーリさまは?」
 しっ、とハディは唇の前で指を立てた。
「いまはお休みよ」
 かがみ込んでいた医師が身体を起こすと、寝台でまぶたを閉じるユーリの姿があった。  ハディたちの視線に促されるようにかぶりを振った。
「熱は上がりきったようですな、朝までには下がるでしょう」
「上がりきった後も苦しんでおられましたのよ」
 医師は眉を寄せた。
「そういうこともあるでしょう。いろいろ不安になっておられるのですよ」
 リュイは寝台に近づいた。
 多少速く感じられたが、ユーリは規則正しい寝息を繰り返していた。
 ほっとする。
 並んだシャラがねぎらうように軽く腕を叩いた。
 リュイも力無く微笑み返す。
「いかがですかな?」
 息を切らせて薬師が到着したのはその時だった。
 すでに退出の支度をすませていた医師は頭を振ると脇をすり抜けるように戸口をくぐった。
「どうやら、今回はお手を煩わせることはないようですわ」
 ハディが呆れながら応える。
 老いた薬師は所在の無くなったことに気がつくと、それでもせかせかと寝台に近寄った。
「おお、お休みのようですな」
 頷きながら手をもみ合わせてリュイとシャラを振り返る。
「朝の食事の後に差し上げる薬を処方しておきましょう」
 持参した薬品箱を机の上で拡げようとして、顔をしかめた。
「あんた、怪我をしているね」
「えっ?」
 指されてリュイは驚いた。
 老人の指先は裾を向いている。
 さっき引っかけたときに傷でも作ったのだろうかと一瞬思い当たる。
 そんなことはなかった。それならば痛みぐらいは感じただろう。
 リュイは衣服を持ち上げた。
 老人とはいえ男性の前だったが、どうせ相手は薬師なのだ。
 ほころびが出来ていると考えていた場所には不定形のシミがあった。
 うす茶色のそれは、慣れた者には血の色に見えないこともない。
「リュイ・・これって・・」
 のぞき込んだシャラが息を飲んだ。
 
 それは二つの小さな手のひらの形をしていた。

                    

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