呼ぶ声 B
天井の高い広間はひんやりとしている。
いつだったかこの場所で、沈んだ気持ちで日の大半を過ごしたことがある。
たくさんの花に包まれて、ユーリは静かに横たわっていた。
「皇妃さまはいかがです」
声に引き戻される。
カイルは大神殿をまかせている神官を振り返った。
「ああ、疲れが出たのだと思う、心配せずともよい」
馴染みの神官はかすかに口元をゆるめた。
「一番心配されているのは陛下だと思いますが」
祭壇を手で示す。
「あそこにおられたのでしたね」
どうやら同じ情景を思い出しているようだった。
「私は陛下があのように落ち込まれたのを見たのは、後にも先にも一度きりでした」
「そうか?」
ユーリが腕の中で動かなくなったときの、恐怖で心臓が鷲掴みされた感覚は忘れられない。
あの時よりも、ふたりの絆はさらに深く強くなっている。
もしユーリが失われることがあったとしたら自分はどうなるのだろう。
カイルは紗の下に横たえられたユーリの幻影を振り払った。
「あれは今日ここに来られないことを残念がっていた」
離宮を後にするときに交わした抱擁の暖かさがまだ残っている。
ユーリは暖かい身体を持って息づいている。
「本来なら大神官は自分だからと言って」
神官は深々と頭を下げた。
「そこまでお心を砕いていただいて、嬉しく思います」
帝国にとっても重要な女神を祭る大神殿の祭祀長は皇妃が勤めることになっている。
その責務からだけではなく、ユーリは常にこの神殿を気に掛けていた。
「神事は及ばずながら私が代行しよう・・・イシュタルの代わりにはほど遠いがな」
「とんでもない!」
神官は笑った。
「皇帝陛下に執り行っていただけるならこれ以上のことはありません」
何かが破壊される音がする。
家の中をかき回しているのだ。
「くそっなにもない家だ」
のしかかる男の息が生臭い。
太い腕が身体を押さえつけている。
「金はないのか?」
「あるはずないだろ?」
周囲で笑い声が上がった。
「この女はどうだ?」
大男が見下ろしている。
「子どもはいないのか?」
寒い。
ユーリは立ち止まって周囲を見まわした。
どこに、行ったのだろう?
裸足の足の裏に石の床がざらつく。
不意に冷たい風が吹きつけた気がして身体を竦める。
あいつが、連れて行った。
「どこに・・」
口に出して、気づく。
いつの間にか、回廊の真ん中に立っていた。
朝のぬるんだ光が柱の間から床をまだらに染めていた。
夜着のままで、どうしてここにいるのだろう。
「ユーリさまっ!!」
悲鳴のように叫んでハディが走り寄ってきた。
まだ夢の中のような気分でユーリはそれを眺めた。
「お食事をお持ちしたら、いらっしゃらなくて」
ユーリの肩を抱き寄せたハディの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「まだ歩き回られてはダメです!」
「・・・ごめんね、ハディ」
言いながらもユーリは首をかしげる。
「どうしてか、ここにいたの」
非礼を詫びながらハディは自分のストールをユーリの肩に巻き付けた。
「どういうことですの?」
肩を包むようにそっと歩き始める。
眠りながら歩き回る人間がいることは知っている。
たしか不安が大きいとそういう病になるのだと、聞いたことがある。
「なにか、お気にかけられていることでも?」
ユーリは夢の中で苛まれた不安を思い出す。
こめかみが痛むほど願っていた。
返して。
「探してた」
連れ去られた者を必死になって。
「子どもはいないのか?」
小さな首に腕がかかる。
やめて。
「やめて・・・」
つぶやくと、ユーリは顔を強張らせた。
「ユーリさま?」
ハディがまた心配そうにのぞき込む。
「横になられた方が・・・」
「やめて」
視界が赤く染まる。
胸のあたりに、炎のような固まりが押しつけられる。
ユーリはそこに両手をあてた。
息が出来ない。
「ユーリさまっ!?」
ハディが叫ぶ。
ヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテ
ユーリの身体が崩れ落ちた。
「東の森のはずれの小屋ですと?」
神官はカップを持ち上げて訊ねた。
「ああ」
カイルは頷くとワインを含んだ。
神事の打ち合わせはいつの間にか世間話になっていた。
「急な雨で助かった・・・が、ユーリは風邪をこじらせたようだが」
炎に照らされながら過ごした一夜を思い出す。
冷えた身体はすぐに暖まったし、その後も朝まで腕の中に大切に抱いていたはずなのに。
神官は目をしばたかせた後、頭を振った。
「あそこには滅多に近づく者はおりません・・・物騒なところですから」
「物騒?」
カイルが繰り返したので、神官は慌てて頷いた。
「森にならず者が潜んでいることがあって・・・いや今は陛下の威光のためにそんな者は出ませんが・・以前は」
カップを見ながら神官は記憶を巡らせていたようだったが、やがて頷いた。
「陛下がまだ王子であらせられたころに、ちょうど街がカシュガに襲われた時がありましたな」
「ああ、覚えている」
ちょうどその時にこの神殿で冷たくなったユーリを眺めたのだった。
戦での勝利の後に訪れた、突然の別離。
ただの小娘だったユーリはあの仮死がきっかけで女神として再生したのかも知れない。
暁に照らされたユーリのまぶしさを思い描く。
「あの時、カシュガが最初に襲ったのが、あの森番の小屋だったのですよ」
カイルは虚をつかれて神官を見返した。
「人が、いたのか?」
長い年月に人が住まなくなって、うち捨てられ朽ちた小屋だと思っていた。
「もともとは誰も住んでいなかったのですが、ある夫婦が住み着きまして」
神官は思い出したのか眉を寄せた。
「こちらに知り合いはいなかったようですが、市にはときどき揃ってきていたようです」
「死んだのだな」
あの傾いた家の中で。
カイルは苦い思いに囚われた。
カシュガ族の残忍さは知っていた。助けを呼ぶ術のない夫婦者がどういう目にあったのか想像はたやすかった。
男はなぶり殺され、女は犯された挙げ句に殺される。
夫婦が血を流して倒れたかも知れない床の上で自分たちは睦み合ったのだ。
死者に対して軽率だったのかも知れない。
「子どもがいたようなのですが、見つかりませんでした」
神官は深くため息をついた。
「カシュガ族を打ち破った陛下を、あの夫婦の無念が呼び寄せたのかも知れませんね」
「このあたり、よ?」
リュイの言葉に、シャラは腰を落とした。
「ここ?」
柱のまわりを眺める。
「なんにもないけど、別のと間違えてるんじゃないの?」
「ここだってば」
リュイは語気を強めた。
確かにこの位置でなにかに裾を引かれたのだ。
あの時ちらりと目の端を掠めたのが小さな手のひらだったと、今は言える。
「分かったよ、ここだったとして・・・なんだと思う?」
シャラの言葉にリュイは頭を振った。
「分かるわけないじゃない」
とりあえず、夜の回廊でなにかに裾を引かれて、衣服には小さな血まみれの手形が残った。
「・・・出たのかな?」
「かもね」
ここの後宮に来るのは初めてではないけれど、そんな怪談は聞きはじめだった。
幼い頃から男と同じに剣をとって戦うことを教えられた。
戦場に随行して刃を交えたことも何度もあった。
人の死、には鈍感な方かも知れない。
「相手は・・・子どもなんでしょ?」
「そう思うけど」
自信はなかった。
「なぜだろう?」
「さあ?」
双子は互いに肩をすくめあった。
話していても何か結論が出るとは思えなかったし、このことが広まれば後宮に勤める他の女官達にどんな影響を及ぼすのかも分からない。
双子は床に置いた荷物を拾い上げると、ユーリの部屋へと向かう。
「このことは、ユーリさまには内緒よ、シャラ?」
「当たり前でしょ!」
朝方、ユーリは三姉妹が朝食の用意をしているすきに寝所を抜け出して裸足で回廊に立っていたという。
眠りながら歩き回るのは心に深い悩みを抱えているせいだと姉は言った。
至上の地位にある人の悩みを解決する手助けなどできるはずがない。
だから三姉妹はせめても交互にユーリのそばにつくことに決めた。
「陛下はいつお戻りかしら?」
「夕刻には戻ってこられるのでは?」
病床にある最愛の妃から離れていることなど、あの皇帝に出来るはずがない。
ユーリの心を癒すことが出来るのは皇帝だけだと、信じていた。
「湯浴みは無理でもお体を拭いて差し上げましょうね」
言うとシャラは唐突に立ち止まった。
肩にぶつかり、リュイが非難するより先にシャラの手が腕に食い込んだ。
「なによ、痛い!」
黙ったままのシャラの視線を捉える。
目の前には、後宮一豪奢な扉。
皇妃のための最奥の部屋の扉は、繊細な彫刻が一面に散らされている。
その扉の下半分ほどには、びっしりと小さな手形がついていた。
「女より、子どもだ。子どもの皮膚の方が柔らかい」
大男はそう言った。
「まったく、変わった趣味だな」
また笑い声があがった。
視界が涙で曇っている。
背中が直接床に押しつけられて擦れた。
男達が何度も覆いかぶさってくる。
「この女、悲鳴をあげもしねぇ」
声を出してはだめだ。
あの子が目を覚ます。
風邪気味だったから、暖炉の真裏にある小部屋に寝かせた。
唇を噛みしめる。
戸口で転がっていた夫の姿。
「おい、早くしろ!」
大男が叫ぶ。取りだした幅広のナイフを舌先でなぶる。
「はやく皮が剥ぎたい」
「やめてっ!」
飛び起きた。
「ユーリさまっ!」
覆いかぶさるようにハディが飛びつく。
それを引きずるように立ち上がった。
「連れて行かないで!」
「ユーリさま、お気を確かに!」
騒ぎを聞きつけて双子が転がり込んでくる。
「ユーリさま!!」
声を出さなかったのに。
あの子が目覚めないように。
小さな足音が聞こえる。
大男が部屋へ入ってくる。
残酷な光をたたえた目がのぞき込む。
『待てよ、ズワ。もう少し楽しませてくれ』
足音が聞こえる。
裸足で歩く音だ。
『かあしゃん』
戸口にあの子が立っている。
「来ちゃダメ!」
三姉妹を振り払うと、開け放した戸口に突進する。
「だめ、殺される!」
すぐに伸びた腕で押さえつけられる。
『やめて』
大男が不気味に口元をゆがめた。
『子どもだ・・・』
あの子は後ずさる。
『かあしゃん』
小さな首に腕がかかる。
『やめてぇっ!』
突然、胸に衝撃が走る。
ごぼごぼとなにかがあふれ出す。
何が起こったの?
息が出来ない。
胸にまっすぐに突き立てられたものを見る。
熱い・・・。
泣き叫んでいるのはあの子だ。
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