火宅の花嫁 <壱>

                by千代子さん
1 嫁泣かせのななかまど

 江戸の夏は暑い。
 武蔵野平野を行く風も生ぬるく、茹だるような暑さの中にいると汗で身体中に服がへばりついて息をするのも苦しいが、そんなときでも炊事洗濯に追われるのは主婦の悲しいところ。
 アレキサンドラは襷を掛けて袖を捲り上げてはいるが、ちろちろと燃えないかまどの火をなだめていれば汗が滴るのは必定で、一刻も早く頭から冷や水を浴びてすっきりしたかった。
「今日の薪はなかなか燃えないのね」
 この頃ようやく慣れてきた火起こしだったはずなのに、今日はどういうわけか一向に燃える気配がないことに、アレキサンドラは焦りを隠し切れなかった。
「お義母さまがなんとおっしゃるか…」
 かまどが準備できないとご飯も味噌汁もできない。飯の仕度が遅い、と言って怒り狂う姑の姿を思い浮かべて、アレキサンドラは身震いした。
「お義母さまが怒ったら、今回は鍋を壊されてしまうわ」
 アレキサンドラはこの家に嫁いで来てまだ日が浅い。
 実家は船運送を営む大商家だったからなに不自由なく育てられ、炊事の場に立ったことなどなかったから、嫁いで以後、かまどと向きあうのはなかなかに大変だった。
 もちろん実家の両親もそれを心配して、わざわざアレキサンドラが台所の舵を握らなくてもいいような家を選び、結婚させたのだが、婚家の姑は女中を何人も置いているにも関わらず、若嫁に家事全般を任せたのだった。
 そんな姑は、アレキサンドラが慣れない家事で失敗すると、待ってましたとばかり大げさに取り上げては嫁を攻撃した。
 この前も、1銭均一で買ってきた茶碗を謝って土間に落として割ってしまい、落ち込んだアレキサンドラに、
「おおお、なんとも恐れ多いことを。その茶碗は、まろ家が将軍家から賜ったもののレプリカなのに!」
と言い、
「なんとも情けない嫁だねぇ。茶碗ひとつ満足に洗えないとは」
と罵るのを忘れなかった。
「とにかく、早く火をつけなくちゃ」
 アレキサンドラはそう呟いて火付のための藁を取りに立ったとき、背後に人の気配があることに気づいた。
「まだつかないのかね」
「お義母さま!」
 少したれ気味の大きな胸のために前あわせが上手くいかない着物のおはしょりを引っ張って、姑ナキアが竈の火を覗き込んでいた。
「まったく、おまえは実家でなにを教わってきたんだね。火も上手く起こせないなんてしょうもない子だよ」
 ぽんぽんと嫁を罵る言葉を投げつける姑に、アレキサンドラも負けじと、
「お義母さま、お言葉ですが夕食までにまだ時間はたっぷりありますわ。要は間に合えばよろしいのでしょう? あまり時間を気にしすぎるとシワが増えますわよ」
「なんだと、この嫁は! 」
「お義母さまこそ!」
 互いに胸倉をつかみ合って、あわや乱闘、という二人の間に一陣の風がすうっと吹いた。
「そこまでにしてくださいっ!!」
「ジュダ!」
「あなた!」
 妻と母の間に立ったジュダは、まだ店の半纏を着たままだった。おそらく番頭から奥の騒ぎを聞きつけていそいでやって来たものであろう。
「母さまもアレキサンドラもいいかげんにしてください。店の者にもしめしがつかないじゃないですか」
 ジュダの店は江戸は上野でも指折りの薬屋である。もとは母ナキアが夫の死後、遺産金で始めたものであったが、どうもナキアは商売に向かず、ここまで大店にしたのはジュダだといってもよかった。
「今日はどうしたの、アレキサンドラ」
「だって…」
「母さまは少しアレキサンドラにきつくあたりすぎです。もうちょっと仲良くできないんですか?」
 母よりも妻を労わる息子に、ナキアは歯がゆく思うものの、それを口にしたら嫌われると思うと、喉元まで出た言葉をいつも飲み下さねばならなかった。
「ああ、原因はこれですか。火はこうしてなだめてやればつきますよ…あれ?」
 かまどの前にしゃがんで薪を整えていたジュダは、少し首をかしげた。
「火がつかないぞ。あれ、どうしたんだろう?」
 不思議に思い、かまどの中の薪を引きずり出してみてジュダはおどろいた。
「こ、これは…ななかまど!」
 ななかまどは別名キキンニといい紅葉樹であるが、七回焼いても火がつかないほど固いことからこの名がついたという。
 また一名「嫁泣かせ」とも言われており、その名の通りにアレキサンドラがいくらやってみても火がつかないのはこれのせいであった。
「この木を仕込んだのは母さまですね! 大人気ないことはやめてください!」
「なんだと、ジュダ、おまえはこの母を疑うのかね。まったく嫁に骨抜きにされよって…」
「なにをおっしゃってらっしゃるんですか! こんなことをするのはお義母さましかいませんわ!!」
「なにを! この嫁は!! ほんとに穀潰しだよ」
「まぁぁぁぁぁぁ、ひどいですわ! 日ごろのご飯は誰が作っているとお思いですの!?」
「ああ、ああ、すぐにこれじゃよ、嫁が姑をいびるなんて…世に聞いていた話とはいえ、まさか我が身に降りかかるとはのぅ」
「なんですって!? お義母さま、ひどい!!」
「そこまでぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
 ジュダは興奮のあまり、シュワッチの姿で妻と母親を交互に攻撃してから、大人しく、
「とにかく、わたしは店に戻ります。二人とも、仲良くしてくださいね、よろしくお願いしますよ」
と言うと、乱れた半纏を着なおして台所を出て行った。

 翌朝、ジュダとアレキサンドラは店の入り口に立ち、
「では、行ってまいります」
と、久しぶりに半纏を着たナキアに頭を下げた。
 今日は、先日浅草に住む兄夫婦のところに長男が生まれたので、その顔を見に行く日なのだ。
「まったく、カイルの息子など見てなにが面白いのだ。猿面冠者に決まっておる」
 戸籍上は親子でも、実は亡き夫の亡くなった先妻の息子であるカイルをナキアは好ましく思っていなかった。
 カイルがいなければ浅草の大店は自分のものだったのに、というのがナキアの口癖になっているほどである。
 後妻の自分にカイルは懐かなかったし、ナキアもまた可愛がろうともしなかったが、ジュダはカイルによく懐き、兄弟仲がよかったのは知っている。
 しかしそれでも憎らしく思えてならず、ナキアは苦虫を潰したような顔でいた。
「あ、母さまは店の奥に座ってらっしゃるだけでいいですからね、番頭に任せてありますから」
と言い置いてジュダたちが出かけた後、ナキアはここぞとばかり近頃ひいきの芝居小屋へ飛び込むのを忘れなかった。

 浅草の仲見世をゆっくり歩きながら、それが目印の紺地へ白く家紋と屋号「曙屋」の文字を染め抜いた暖簾の掛かった店の前で立ち止まると、アレキサンドラは手土産の草団子をジュダに手渡して暖簾をくぐった。
「ごめんくださぁい」
 と声を掛けたが、なにやら中が騒がしく奥まで届かないらしい。
 しかたなしに裏へ回ろうかとしたとき、偶然にも兄嫁ユーリが奥からでてきた。
 アレキサンドラはその姿を見つけると、水を得た魚のように飛び上がり、
「お姉さま!」
と上がり場に片足を掛けた。
「アレキサンドラちゃん、来てくれたの」
 二人は実の姉妹のように手を取り合って、
「久しぶりねぇ、お義母さまはお元気?」
「お義母さまは相変わらずよ。昨日も喧嘩したわ」
と、ひとしきり近況を語ったあと、
「さぁさ、中に入ってちょうだい。いま、みんながお祝いしてくれてるの、ちょうどいいから一緒に騒いでいって」
とユーリは二人を案内してくれた。
 ユーリはもともと美しかったものが、子供を産んでまた一層と輝きを増したように思え、アレキサンドラは思わずほぅっと見とれてしまった。
 初めてユーリと会ったのはジュダとの結婚が決まって挨拶に行ったときだったが、その第一印象はまるで少女のような可愛らしいひと、であった。
 常に自分自身の目標であったユーリを見て、アレキサンドラはいつか自分もあんなふうに綺麗になれるかしらん、とまだ少女心が抜けぬ胸を踊らさずにはいられなかった。
 廊下を幾曲がりかしたあと、襖をあけ払った一室のまえでユーリは、
「カイル」
と夫を手招いた。
 部屋の中には何人かの屈強な男たちが徳利を片手にすでに出来上がっており、カイルもそれを押しのけるように立ってこちらへやってくるものの、その足元は千鳥足に近かった。
「おお、来たか、ジュダ。おまえも少し飲め」
 挨拶もそこそこに猪口を押し付けるカイルをユーリが嗜め、ジュダが持ってきた手土産を手渡したところへ、どたどたと粗い足音がして巨漢の男が玄関のほうからこちらへやって来た。
「ミッタンさん」
 ユーリにそう呼ばれた男は手に赤い祝樽を下げていて、カイルに、
「総領ご誕生おめでとうございます」
と大きな声で禿げた頭を掻き掻き手渡した。
 世にも不思議なものを見た、という顔をしてしまったアレキサンドラにユーリはそっと耳打ちをして、
「この先の盆栽屋さんの若旦那のミッタンさん。カイルと寺子屋で一緒だったのよ」
と教えてくれた。
「盆栽屋さん…」
 ぼんやりと呟いたまま促されて部屋に入ると、ユーリの友人だというギュゼル、カイルの寺子屋時代の友人の籠屋カッシュ、散髪屋ルサファ、石屋シュバスなどと引き合わされ、みんな親しく気安く、その日は生まれたばかりのカイル夫婦の長男、デイルも抱き、いい気分で帰ってきた。

 日本橋は大江戸でも指折りの賑わいを見せる繁華街である。
 盆栽屋ミッタンはカイルの家を辞したあと、ほろ酔い気分のままに足を向けた。
 道みちに溢れる客引きの芸妓や男衆を振り切って目指すのはなじみの料亭「加納屋」で、入るなり出迎えの男衆も心得たもので下駄を預ると敷かれた毛氈の上を先導する。
「あらあ、ミッタンさま、お久しぶり」
 長廊下の角を曲がったところで甲高い嬌声とともに現れたのは、年のころ二十代前後の、この世界では年増の部類に入る芸鼓、花千代であった。
「ミッタンさま、なかなかお見えになってくださらないから、あて、寂しかったわぁ」
 しなを作ってもたれかかってくる花千代に、ミッタンは歩きながら、
「お花は好うさんができたと聞いたぞ? 品川のこぅさん、違うか?」
「それは言わないお約束。あて、ミッタンさまにも可愛がって欲しいわぁ」
「おうおう、そのうちにな」
とあしらって、なじみの部屋へ入ると、間もなくしずしずと障子が開いた。
 襦袢をちらりと見せた裾引きで、一目で売れっ子と判るその芸妓は心得たものでミッタンの側に陣取ると酌を取り、
「なかなかおいでくださらなくて、寂しゅうございましたわ」
と甘えて見せた。
「仕事が忙しくてね。なかなか…」
「うそ、ほかにいい人できたんでしょう?」
「鴫吉以外にいい妓がいるかねぇ」
「もう、上手いんだから」
 鴫吉と呼ばれた芸妓は、この世界の水で磨き上げたとびきりの上玉で、ミッタンが旦那になっている妓であった。
 盆栽屋の若旦那として手広く商売をしているミッタンは、料亭や花街で派手に遊ぶ力も充分にあり、ミッタンが吉原の門をくぐるその晩はお茶挽く妓はいない、日本橋を渡る日は置屋が忙しいと囁かれるほどだという。
「ここしばらくは盆栽に手が離せなくてね、お鴫にもかわいそうなことをしたね」
 酌を受けながら詫びるミッタンに、鴫吉も、
「いいえ、旦さんは大きなお方でございますもの。こうしてたまさかにでも来てくださるだけで、あては嬉しゅうございます」
と賢い答えをするのであった。

 翌日、ジュダ夫婦の目がないのをいいことに、芝居見物したあと、偶然会った並びの金物屋の隠居旦那に誘われて遊んで帰ってきたナキアは珍しく二日酔いで寝ていた。
 アレキサンドラはいちいち姑の行動を探索したりはしないけれど、酔って萎えている姿を見れば、しかたのないお義母さま、とあきれつつ、二日酔いによく効くという薬粥を食べさせてあげようと思い、ユーリに作り方を教えてもらおうと胸算要して二日続けて浅草の家を訪ねて行った。
「ごめんくださぁい」
と声をあげると、めずらしく中はしんと静まりかえって返事がない。
 もう一度声を張り上げてみると、奥からデイルを抱いたユーリが真っ青な顔をして現れ、アレキサンドラに取りすがらんばかりに膝をついて取り乱している。
「お姉さま、どうなすったの?」
 こんなユーリを見るのは初めてだけに、アレキサンドラも動揺を隠し切れずに訊ねたところ、ユーリは初めのうちこそ口が上手く回らないようだったがゆっくり自分を取り戻しながら語ったのは、驚くべきことだった。
「アレキサンドラちゃんが昨日ここで会った盆栽屋のミッタンさん、ミッタンさんがね、今朝、日本橋の近くの川原で頭を殴られて倒れていたってさっき連絡がきて…」
 アレキサンドラは昨日自分の背後にたった巨漢の男を思い浮かべた。あのひとが誰かに倒されたとあらば、犯人はかなりの大男と容易に想像がつく。
「それで、…まさか…?」
 アレキサンドラは最悪の事態を想像した。
「命は何とか取り留めたって、先に帰ってきたうちの番頭が言ってたわ。でもね、頭を殴られていたから、意識はまだ戻らないらしいの」
 もしかしたらこれから先、容態が急変するかもしれない、とユーリは言う。
「いったいどうして…」
「それが判らないのよ。ミッタンさんは温厚なお人柄だからひとから恨みを買うこともないだろうし…昨日は日本橋の加納屋で呑んで帰る途中に襲われたらしいって」
「加納屋?」
「日本橋の料亭。ミッタンさんのおなじみの芸妓さんがいるのよ。けっこう派手に遊ぶみたいで、そのあたりの料亭じゃ名前が通ってるんですって」
 アレキサンドラは日本橋と聞いて、幼馴染が年季奉公で芸妓になっていることを思い出した。彼女に聞けば何かわかるかもしれない。
「…とりあえず、カイルももうすぐ帰ってくると思うから奥に上がって、アレキサンドラちゃん」
 ユーリはデイルが泣き出したのを機に話を切り上げ、アレキサンドラを奥に通した。
 お茶を勧めて人心地をつけているうち、番頭キックリが顔を覗かせ、
「内儀さん、旦那が帰ってまいりやした」
と告げ、荒い足音とともにカイルがジュダと入ってきた。
「あら、あなた、どうしたの?」
 アレキサンドラがジュダに駆け寄って訊くと、迎えに寄ったところ表でちょうどカイルと会ったのだという。
 女中がそれぞれに茶を運んで来、ひとまず落ちついたところで、まずはユーリが口を開いた。
「それで、ミッタンさんは?」
「まだ意識が戻らないんだ。かなり固いもので頭を強打されたらしい…石頭だったのにな…ここ二、三日が山だろうと医者が言ってたよ」
 カイルの口調は重い。
「お兄さま、ミッタンさんを殴った凶器は判ってるんですか?」
 アレキサンドラは身を乗り出した。
「いや、固いものだってだけでまだなにかは判ってないよ」
「そうですか…じゃ、事件のあった時刻はいつ?」
 立て膝になって乗り出したアレキサンドラの袂をジュダは嗜めるようにつかんだ。
「あまり首を突っ込むなよ、おまえになにかできるものじゃないだろう」
「もう」
 夫に釘をさされて少し頬を膨らませながら、アレキサンドラは仕方なくひっこんだ。
 カイルもそれ以上は知らないようだったし、帰る時間も迫っていたので、当初の目的どおりユーリに簡単に薬粥の作り方を教わると、晴れない気持ちのまま家路を急ぐことにした。
 外に出ると富士の向こうにぽっかりと浮かんだ月が見え、アレキサンドラはしばらく考えていたが傍らの夫を振り返って立ち止まった。
「あたし、やっぱり気になる」
「気になるって、おまえ…」
「これもなにかの縁だと思うの。だって昨日会ったばかりのひとがこんな事件に遭遇したのよ!? こんなこと、ひとの一生で何度もあうことじゃないわ!!」
 何度もあったら迷惑だろう、とジュダは思ったが黙っていた。
「ね、あなた、お願い。協力して」
 手を組んで上目遣いで瞳をうるうるさせながら乞う妻に弱いジュダは、しぶしぶ頷きつつ、
「危ないことはするなよ」
と釘をさすのは忘れなかった。
「ありがとう! 大好き!!」
 ジュダに飛びついて、アレキサンドラはその頬にちゅっと唇を押し当てた。
「ね、ね、じゃ早速、日本橋に行こう。ミッタンさんは夕べ日本橋の料亭から帰る途中で襲われたんですって。きっとなにか判るよ」
と、いまにも手を引いて向かおうとするアレキサンドラにジュダは驚いて身体を放した。
「だけど日本橋は人が多くていつでも大騒ぎだよ。それにそんなこと調べに行くんだっても掛け合ってくれるひともいないだろうし」
「…それは大丈夫だと思うんだけど」
 アレキサンドラは幼馴染のことを思った。
「それに母さまがまた怒るだろうし…」
「お義母さま?」
 アレキサンドラのこめかみがぴくりと反応する。
「ご飯の支度しないとならないしなぁ」
 家の方角を見つめて呟くジュダに、アレキサンドラは下駄の先で足蹴りをお見舞いして、
「あなたって結局お義母さまが大事なのよね。いっつも母さま、母さまなんだから」
と言い捨てるなり、夕暮れはじめた街中を駆け出した。
 ジュダが慌てて追いかけてくるのが判ったが、立ち止まってなんかやるものかと拗ねつつアレキサンドラはあの角を曲がったところで待っててみようかな、などと考えている。

          

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