火宅の花嫁 <弐>

                by千代子さん

2 日本橋の蝶、まつ屋鴫吉

 翌朝、家で朝食を済ませてから、ジュダとアレキサンドラは日本橋へ向かった。
 日本橋は五街道の出発点、ここから日本全国への道が開けていると思うとアレキサンドラはなにやら壮大な思いに打たれたような気がしたが、今日はそんな気持ちを惜しんでいる暇はなく、目指す置屋へと向かった。
 置屋が立ち並ぶ通りに入ると、歩く道すがら、一目で芸妓衆と思える姐さんたちが稽古の帰りらしく三味線片手にちろりちろりと歩いているのと何度かすれ違いながら、アレキサンドラは小唄のひとつも知らない自分がなんとなく恥ずかしかった。
 ようやく目当ての置屋「まつ屋」の前に立ったアレキサンドラは、襟元に風を入れて一息入れると、いつもの元気よさで声をあげた。
 応じて奥から現れたのは、この置屋のお母さんだった。
「あれまあ、船屋の嬢さん。まぁまぁお久しぶりでございますねぇ、あらあら、いまは奥さまでございますか」
 お母さんは屈託のない笑顔でアレキサンドラを客間に通してくれ、すぐに呼びますからね、と言い残して部屋を出て行った。
 しばらくして障子の向こうに人影が現れ、口上で、
「花千代でございます」
と挨拶があると、アレキサンドラは駆け寄って、
「花千代ちゃん!」
と手を取らんばかりに再会を喜んだ。
「あんれぇ、アレキサンドラちゃん。なにしに来たの?お家、苦しいの?」
 花千代は寝ぼけたことを言いながら運んできたお茶を並べ、自分の分をくぅーっと飲み干すと、改めて、
「こんな所へなにしにいらっしゃった? あてになにか訊きたいことでもあるの?」
と座りなおした。
 アレキサンドラは小さく頷くと声を潜めて頭を寄せ、
「盆栽屋のミッタンさんのことなんだけど」
 と切り出すと、花千代はうんうん、と頷いて、
「ミッタンさん、殴られて意識不明なんだって? なんでも恨みらしいねぇ、まぁミッタンさんを恨んでるのはたくさんいるからねぇ」
とアレキサンドラが喋りだす前に一気に言ってのけた。
 まだ打ち明けてもいない話を花千代が知っていることで驚きを隠せないアレキサンドラに気づいたのか、花千代はけらけらと笑って、
「アレキサンドラちゃん、あてらを舐めちゃいかんよ。この日本橋には江戸中の噂話が飛び込んでくるんだから。この話だって、きっとアレキサンドラちゃんが知るより前にあての耳に届いてたよ」
と息をついて帯の間に空気を入れる仕草をして足を伸ばした。
 アレキサンドラは圧倒されながらも、花千代がぽろりと漏らした言葉に飛びついた。
「ミッタンさんが恨まれてるってどういうこと?」
 花千代は一瞬まずいことを言った、と顔をしかめたが、これは本当は内緒の話なんだけど、と前置きをしてもう一度顔を寄せた。
「ミッタンさんは豪快で金払いもよくて大きなおひとなんだけど、商売に関しちゃ厳しいから商売敵からは恨みばかり買ってるのよ。先代がつぶしかけてたいまの店を大きくしたのもミッタンさんだしね。ミッタンさんを潰せば商売の流れが変わるって言って、虎視眈々と狙ってた旦那は多いんじゃないかしら」
「たとえば、どの旦那さんか判る?」
「う〜ん、まぁ江戸中の旦那さんとは言わないけど、盆栽に必要な古道具屋さんとか、まぁいろいろでしょうね」
 花千代はお茶を入れなおしてごくりと飲み干した。なかなか要領を得ない話に、アレキサンドラは思わず大きな溜息をついてしまう。
「大店の旦那さん以外に、女関係はないの?」
 いままで黙っていたジュダが、アレキサンドラの後ろから声をかけた。
「そりゃあ有りよ、大有りよぉ。あんなに女好きなおひとはいないでしょう」
 花千代は指を折りながら、
「えっと、まずはここの鴫吉姐さん。姐さんとはずいぶん長いんじゃないかしら。それから鶴屋の峰吉姐さん、染奴さん、益美屋の辰若さん、藤屋の美吉姐さん、芳駒姐さん…」
 と数えていって、
「あ、でも最近で言ったら小奴ちゃんかしら」
と区切りをつけた。
「小奴ちゃん?」
 アレキサンドラが首をかしげると、
「…これはあてらの内緒話だから、いまから言うのはあての独り言よ」
と前置きをしてから、
「鴫吉姐さんは小奴ちゃんにミッタンさんをとられたんです」
と、眉を細めた。
 鴫吉と小奴は姉妹分で仲も良かったが、このところ体調を崩してお座敷を休みがちだった鴫吉の隙を見て、この界隈一の人気があるというミッタンを自分の旦那につけようと企んだらしい。もちろん鴫吉の同心がそれを告げたが、だまって鴫吉は笑うばかりであったという。
 ミッタンも生来の女好きから小奴を面倒見てやっていたが、鴫吉がいよいよ戻って来るとだんだんと小奴を呼ぶ回数を減らしていき、ついには三行り半を書いたという。
「結局ミッタンさんは鴫吉姐さんだけだって自覚なすったみたいだけどね」
 事件のあった日は久々に鴫吉を座敷に呼んだ夜で、だからこそ花千代たち芸妓衆の間では、
「恨みじゃないかって言ってるの。小奴ちゃんがミッタンさんを恨んでの犯行」
と囁きあっていると言う。
「…ふぅん、よく判ったよ、花千代ちゃん。今日はありがとう」
 アレキサンドラは膝のあたりを払って立ち上がった。
 早く帰って頭の中を整理しなければならないと思う。
「もしよかったら、今度また遊びに来てね。アレキサンドラちゃんなら大歓迎」
 表まで見送りに出てくれた花千代に手を振り、二人は大通りに出た。
 相変わらず旅装束の人や商人などが行き来していて、なかなかに騒がしい。
 二人は落ち着いて話そうと、ゆっくり歩いて川岸までやって来た。
 アレキサンドラが腰を下ろそうとしたとき、ジュダが懐からなにやら出してくれ、見るとそれは好物のさつま芋の煮たのだった。
 朝、台所から失敬してきた、と笑うジュダと並んで座りながら、アレキサンドラはひとつひとつ確認してみる。
「まず、いまの段階で名前が挙がってるのは、まつ屋の鴫吉姐さんと小奴さんね。二人のうちのどちらかが恨みでミッタンさんを殴ったって考えられないかしら?」
 浅はか過ぎるかも、と言いつつ、ジュダに意見を求めると、
「うん、まだ二人が犯人だって決めてかかることは危ないと思うけど、まったく関係がないとも言い切れないね。それにぼくたちは鴫吉さんにも小奴さんにも面識ないんだから、どういう人かもわからないし」
「そうねぇ…」
 アレキサンドラはどうしたらいいのかしらん、と思いながら川の向こう側を眺めた。
 さっき渡った橋の上には玩具屋が店を開いており、子供たちが群がっている。
 嫁いで三年子無しは去る、とは誰に聞いた言葉か、おそらく祖母あたりに女子の戒めとして聞かされたものだっただろうが、自分はまだ嫁いで数ヶ月、子供が生まれるわけがない、と思うけれど、無邪気に遊んでいる子供たちを見ると誰かに背中をぽんと押されたような気がしてしまう。
 そんなことを考えていたためか、気づかぬうちにジュダを見つめていたらしく、はっと気がついて目をそらしたとき、アレキサンドラは向こう側の岸に見覚えのある人影を見つけた。
 しかし名前が出てこず、誰だったけな、誰だったけな、と脳裏に知り合いの顔を走馬灯のように横切らせているうち、思い当たったのは先日ユーリの家で会った石屋シュバスの顔であった。
「ねぇ、あのひと、お姉さまの家であったひとよね?」
 アレキサンドラが指差した先を目を細めて見つめたジュダも、
「確か、石屋のシュバスさん、だったか?」
と頷いていると、誰かを待っているらしく川岸を行ったり来たりしている。
 近くまで行ってみようということになり、橋を渡って気づかれないよう草むらに身を隠して待っていると、向こうからやってきたのは玄人風の女性だった。
 シュバスは女性を確認するとにこやかな顔になり、軽く手を振った。
「小奴さん」
 女性が近づくとシュバスはそう呼んで、
「考えてくれましたか、例の話を」
と手を握った。
 草むらの中にこっそりと隠れるジュダとアレキサンドラには、石屋シュバスの声は川の流れる音とともに耳に入ってくる。
「小奴さん、わたしはあなたを一生大事にします。ですからどうかお願いします」
 手を握られたままの小奴は、どうしたらいいのか判らない顔をしてあいまいに頷きつつ、
「シュバスさま、あなたさまのお気持ちは嬉しく思います。けれど、あてには石屋の女房など勤まりません。どうぞあてのことは春の夜の夢とお忘れください」
と顔を背けた。
「今日はそのことをお伝えにまいりました。失礼いたします」
 手をそっと振り解いてもと来た道を帰ろうとする小奴の背を、シュバスの声が叩いた。
「それは、あなたの心にミッタンさんがいるからでしょう」
 小奴はびくりとして立ち止まり、しばらく何かを考えているようだったが、やがてゆっくりとシュバスのところへ歩いてきて、
「ミッタンさんは結局、あてより鴫吉姐さんを選びなすったんです。あてがどんなにお慕い申し上げても適わぬお相手でございました」
と悲しそうに言うと、背を向けて歩き出した。
 一部始終を見守っていたジュダとアレキサンドラは、肩を落として歩き出したシュバスの姿が見えなくなったころ草むらから這い出て、それぞれ顔を見合わせた。
 いまの話によれば、ミッタン、鴫吉、小奴の三角関係の中にシュバスまでもが加わっていることになる。
 すなわち、シュバスは芸妓小奴に恋し、妻に貰い受けたいと思ったが、彼女の心にはミッタンが住んでいるためにそれも適わず、もうひとつ突き詰めてゆけばミッタンを襲ったのはシュバスである可能性も浮かび上がってくる。
「動機は?」
 アレキサンドラはジュダに問うた。
「小奴さんをミッタンさんに取られないために、ミッタンさんを亡きものにしようとしたってことかな?」
 ジュダはシュバスが犯人と確信したらしく、腕を組んで頷きながら語ったが、アレキサンドラにはあんなに優しそうなひとがそんな恐ろしいことをするとは思えなかった。
 いまだって肩を落として寂しそうに帰ってゆく後姿に、とても同情するし哀れに思うのに、彼の犯人姿は見当がつかなかった。
「とりあえず、シュバスさんがどういうひとなのか知っておかないとね」
 ジュダは確信のあるような目で言うけれど、アレキサンドラはなにか靄の晴れぬまま、とりあえず家に帰るしかなかった。
 翌日、数日店を開けておいたつけで外出できなくなったジュダを尻目に、アレキサンドラは再びユーリの家を訪ねた。
 こちらも店が繁盛していて忙しくしていたが、ユーリは子供が生まれたばかりでもあり奥に座ることが多く、アレキサンドラが案内されて部屋に入ったときも先日同座したギュゼルとお茶を喫しているところだった。
「店主が働いてるのに女房がこんなにのんびりしてるなんて、アレキサンドラちゃん、呆れるでしょ? でもこれが子供産んだばかりの女の特権なのよね」
 ユーリは胸に抱いたデイルをあやしながら、二歳になる息子の口を拭いてやるギュゼルと笑いあった。
「アレキサンドラさんはまだですか?」
 ギュゼルが控えめに聞いた。うす赤くなるアレキサンドラをかばって、ユーリは、
「まだ結婚したばかりだものね、これからよ」
と横から口添えしてやるのだった。
 ちょうどそこへお茶を運んできた女中が、あゆみ屋の番頭がやって来たことを告げた。
 あゆみ屋は盆栽屋ミッタンの店の名前で、アレキサンドラはその名を聞くなり顔色を変えたギュゼルをちらりと盗み見た。
 どうしてかしらん、と思いながら、ユーリがこちらへお通しするように、と指示する隣でギュゼルは所在なげに息子のきもののしわなど取ってやっていたりする。
 間もなく入ってきた男をユーリは座敷の中まで誘い、座布団を進めてからミッタンの容態を聞いた。
「旦那は自宅で休んでおりますが、まだ意識が戻りません。お医者さまも毎日診てくださっておりますから、まもなく回復もあることかと思われます」
「で、お店のほうは大丈夫ですか?わたくしでよければお手伝いに参りますが」
 心なしか顔色の悪いギュゼルが身を乗り出した。
「いいえ、ギュゼルさまのお手を煩わせるには及びません。どうぞお気になさらずに」
「ではミッタンさまの枕もとへお見舞いに伺ってもよろしゅうございますか?心配ですの」
「ありがとうございます。ですが、お医者さまもお見えくださりますし、ご案じくださいませぬよう」
 番頭はそっけなく言うと立ち上がり、カイルが頼んでおいた盆栽をユーリに託すと、敷居際で手をついて帰って行った。
 明らかに肩を落としてうなだれるギュゼルを、ユーリはなだめた。
「大丈夫よ、ミッタンさんはお強い方だもの。きっと元気になられるわ」
 無理に笑って頷くギュゼルは痛ましそうだった。アレキサンドラは聞くか聞くまいか迷ったが、思い切って訪ねた。
「お二人は、ご結婚のお約束をなさってらっしゃるんですの?」
 いまの話の内容からすると、縁薄い二人とは思えない。アレキサンドラの言葉に顔を上げたが頷くだけのギュゼルに代わって、
「この前お見合いなさったのよ。ミッタンさんがいたくお気に召されてね。結納の日取りまで決まっていたんだけど…」
とユーリが答えた。
 アレキサンドラはふうん、と頷きながら、ミッタンがまだ目覚めないことに心配しつつ、今日の目的のシュバスのひととなりについて訊いた。
「シュバスさん? ――は、いいひとよ。お店もまじめにやってるし、いつもいろんなことを気にかけてくれてるしね。
 まつ屋の小奴さんと? 小奴さんとはいい仲だったんじゃないかしら? ずいぶん通ってたって話を聞いたことがあるわ。あ、でも結婚は断られちゃったんですってね」
 ユーリも小奴とミッタンの話は聞いていたが、ギュゼルの手前それ以上は口を開かなかった。
 派手に遊ぶミッタンだが妻ともなるときちんと弁えていたようで、芸妓を引き抜こうとは考えていなかったらしく、さすがの鴫吉も例外ではなかった。
 そろそろお八つどきも過ぎ、アレキサンドラは帰り支度を始めた。
 このところ家を開けがちなので、姑ナキアの眉の釣り上がり具合が気になっていた。
 上がり場で草履を履こうと腰を降ろしたアレキサンドラに、ユーリはふと思い出して、
「そういえば…お義母さまは最近よく日本橋に出かけられるのね」
 昨日の夕方、カイルが所用で出かけたときにナキアを見かけたのだ、と言う。
「料亭に入って行ったっていうから、誰か好きなひとでもできたのかしらね」
と笑うユーリだったが、アレキサンドラは姑が料亭に出入りしているなど始めて聞いたものだから驚いて二の口が聞けないでいるのへ、
「そうなればお義母さまのわがままも少しは減るかもよ」
と茶化され、アレキサンドラはだんだん込みあがってくる怒りを抑えつつ、なんとかにっこり笑ってユーリの家を辞した。

「お義母さま!?」
 家に戻るなり大声あげて家中を探し回るアレキサンドラに、ジュダは驚いて後を追いながら理由を聞いたが、頭に血が上ったアレキサンドラは口荒に返事するだけで埒があかなかった。
 とにかく大人しく話をさせなければ、と無理やり手を引いて座らせ、落ち着かせて話を聞こうとするとアレキサンドラの興奮は堰を切ったように噴出した。
「お義母さまが日本橋の料亭に出入りしてるってあなた知ってた!? 今日お姉さまから聞いてびっくりしたわよ! お義母さまったら一日中ぐだぐだしてるのに夜も遊んでるなんて許せないわ!! そのくせ小言ばっかり達者なんだから!! これは一言ものを言わないと気が収まらないわっっっ!!!」
 目を丸くして剣幕に圧倒されている夫の胸倉を掴み、
「さあ、お義母さまはどこなの? 隠しても無駄よ、早くおっしゃい」
と脅しにかかった妻に、ジュダはかろうじて、
「か、母さまなら、ちょっと出かけてくるからって…さっき…」
と、戸口のほうを指差した。
 アレキサンドラはきっと日本橋の料亭に違いないと思い、ジュダを急きたてて仕度をさせ、日本橋へ向かうことにした。
 日ごろ、なにかとアレキサンドラを出来の悪い嫁だの躾が悪いだのと言って難癖つけては家のことを押し付けるくせに、自分はのんびり遊んでいるなんて許せないと思う。
 これは是が非でも一言ものを言わなければ腹の虫は収まらぬ、とアレキサンドラはいつもよりも数段速い足取りで目指す道を進んで行った。


          

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