火宅の花嫁 <参>

                by千代子さん

3 姑はお神酒、嫁は徳利

 ナキアは料亭加納屋で、今夜四本目の徳利を空けて上機嫌で芸妓の舞を眺めていた。
 今日はいつもなじみの大店の主人、ホレムヘブとどんちゃんさわぎをするつもりで腰を入れて飲んでいるためか、まだまだいける気がする。
 いつも息子夫婦に無断で遊びにきているが、近頃はむこうもあまり家にいないようだし、今日はのんびりできると胸算用してのことだった。
「さぁさ、お内儀、もう一献」
 ホレムヘブの差し出した徳利にお猪口をあわせ、ナキアはなみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。
「今日のお酒は美味いですのぅ。わたしも生き返る心地ですわ」
 いつもご馳走になっている分、ナキアは世事が上手かった。
「旦さんも、わたしなんて年増より、若い子のほうが楽しいでしょうに」
 自分を一段低めて言う裏には、自分こそが、と言う気持ちがあるのだけれど、ホレムヘブは好都合にも通じないらしく、突き出た腹を揺さぶって豪快に笑った。
「いやいや、お内儀と飲むのが一番楽しいですぞ」
 最近女房の尻に敷かれることが多くなり始めたホレムヘブは、一見しおらしいナキアに慰められていたのだろうか。
 近頃肥えてきた女房も、もとは恋女房で可愛らしかったのに、とは酔うときの口癖で、ナキアは耳にたこができるほど聞き飽きたが、それを上手く聞いてやるのがナキアの腕の見せどころでもあった。
 そんなことでただ酒が飲めればこれに超したことはなく、ナキアは軽くあしらいながらつまみに箸をつけたりしていた。
「まぁま、飲みっ節がよろしいこと」
 舞を終えた芸妓がナキアの傍に寄って来て酌を取った。
「おお、じゃんじゃん持っておいで、今日は宴じゃ」
 ナキアがいい気分で騒いでいる頃、加納屋の玄関ではアレキサンドラが息を切らしていまにも倒れそうなジュダとともに草履を預けているところだった。
 ちょうどそこへ鼻唄を歌いながら花千代が部屋の移動らしく通りかかり、
「あらぁ、アレキサンドラちゃん」
と手を取らんばかりに駆け寄ってきた。
「花千代ちゃん、うちのお義母さま来てるでしょ!?どこ?」
「アレキサンドラちゃんのお義母さまって薬屋のお内儀さんでしょ?だったら奥の楓の間だけど」
 花千代の言葉を最後まで聞かず、アレキサンドラはどたどたと音を立てて回廊を進んで行った。
 日本橋でも一、二を争う料亭だけに中もかなり広く、アレキサンドラは廊下を行く曲がりしただろうか。
 ようやく闇夜によく通るナキアの賑やかな声をたよりに教えてもらった部屋を見つけると、アレキサンドラは襖を開けるなり仁王立ちして、
「お義母さま!!」
と叫んだ。
 さすがのナキアもアレキサンドラがここまで踏み込んでくるとは思いも寄らなかったらしく、お猪口を片手に片足を上げ、扇子を広げてひょっとこ口になって踊っている姿のまま固まってしまった。
「お義母さま…いつもいつもこんな大騒ぎなさって遊んでいらしたんですね!? いつもいつも口うるさくおっしゃるくせに!! ご自分はこんなにお気楽極楽なさってるなんて、許せませんわ!!」
「な、なにをお言いだい、嫁の分際で姑にはむかうのかね?」
「お義母さまのお心にお尋ねするのです! 女がこんなに乱れ遊ぶなんて恥ずかしいとお思いになられませんの!?」
「なんだと!? おまえごときにとやかく言われたくはないわ!! おまえこそ何かあればユーリの家に走りよって! おまえはユーリと結婚したのか!?」
「まあ、ひどい!」
 突然始まった嫁姑の口争いに、心の優しいジュダは口を挟むことが出来ず、ホレムヘブも酔いが回ってげらげら笑うばかり、座した芸妓たちもおろおろするばかりで収拾はつきそうにない。
「お義母さま!! この際だから申し上げますが、お義母さまは店の番はしない、してもすぅぐ逃げる、たまにちゃんと座っていても怪しげな薬を作って近所のお嬢さんに無理やり試させようとするわ、べらぼうに高く売るわで、まったくもって迷惑ですわ!!」
「おのれ、言ったな!? だったらこっちも言わせて貰うぞ。飯はろくに炊けない、泥のついた大根はきたなくて触れないと騒ぐし、おまけにおまえはジュダのパンツひとつ洗ったことはないではないか!! 主婦失格じゃ!!」
「なぁんですってえ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!」
 確かにジュダの下着ひとつ洗ったことはないが、アレキサンドラは頭に血が上っていたためにそんなことに思い当たる余裕もなかった。
 思わず手近にあった盆をとって投げつけようとすると、後ろから振り上げた手をそっと捕まれ、アレキサンドラは驚いて振り返った。
「まぁま、危のうございますこと。このようなものお振り回しになるなんて、お武家さまではございませぬでしょう」
 ほほほ、と笑いながらアレキサンドラの手からそっと盆を取り上げたのは、例の加納屋一の芸妓、鴫吉であった。
 怒りの矛先を急にへし折られたアレキサンドラはどうしていいか判らない顔で鴫吉の微笑を見返しているだけだったが、だんだん熱も蒸発して身体も静まってくると大騒ぎしたのが恥ずかしく、穴があれば入りたくなってしまった。
「さあ、おいでなさいませ。ご一緒にお飲みなさいな」
 鴫吉はアレキサンドラの手を取ると膳の前に座らせ、差し向かいに座ったナキアと交互に一献注してくれた。
「ほうら、美味しいお酒でございましょ? あてもいただこうかしらん」
 にこやかに笑う鴫吉だったが、アレキサンドラにはなにか一瞬ぞくりと圧倒されるような何かがあった。
 これが日本橋一と謳われる芸者の真実の恐ろしさなのかしらと思いながら、それでもアレキサンドラは鴫吉の巧みな魔術で気持ちがほぐれてゆくのだった。
 
 すっかりいい気分になったジュダはホレムヘブとなにやら大声で歌いあい、その前でナキアもまた気分をよくして踊っている。
 アレキサンドラはなんだか上手くしてやられたような、といまになって鴫吉に丸め込まれた事実を思いながら、手洗いに立ったあと座敷に戻ろうとして中庭に面した廊下を歩いていると、近くの座敷からずいぶん賑やかな声が聞こえてきた。
 どういうお仁さんかしらん、と興味半分に少し開いた襖から目をやると、どこかで見たような男が芸妓衆を侍らせて遊んでいる。
 どこかで会ったような、どこでだったかしら、と思い出せないままアレキサンドラが中腰になって覗いていると背後から肩を叩かれ、
「なにをやっておるのじゃ」
とナキアが首を突っ込んできた。
「お義母さま!」
 さっきまで踊っていたナキアが真剣な顔をしてここにいることに仰け反りかけたアレキサンドラだが、状況が状況だけに声を低めて、
「ここのお座敷にいらしてる方、前にうちのお店においでになりました?」
 もしかしたらお客さんだったのかも、とそっと指を指した。
 ナキアはなかなか足取りもしっかりしていて、少し考えるように腕を組んでから、
「あれはおまえ、あゆみ屋の番頭じゃないかえ」
「あゆみ屋の番頭さん…?」
 アレキサンドラはあゆみ屋の名前を聞いてはっとした。
 それは今日の昼間、ユーリの家へ盆栽を持ってきた番頭だった。
 あのとき辛気臭いと感じた番頭が、まるで人が変わったように遊んでいるのを見て、アレキサンドラはいい気持ちはしなかった。
 仮にも主が瀕死の床に着いているとき、派手に料亭で女たちを侍らせて遊ぶだなんて常識では考えられぬ。
「…あの男…そういえば以前もここで会ったな…」
 ナキアがぼそりと呟いた。
「そうだ、確かあの事件があった夜じゃ。ほれ、コッペパン、じゃったか? あゆみ屋の旦那が殴られた日があったろう。あの夜じゃ」
 ミッタンさんですけど、とアレキサンドラのつっこみを受けつつ、ナキアは続けた。
「あの日も、あたしゃこの店で飲んでおった。ホレムヘブの旦那が煩くてのぅ。ナキアさん、ナキアさんが一緒でないと上手い酒も水のようなものじゃと言ってな、芝居が跳ねたあとここで騒いでおったんじゃ。
 そうしたら隣の座敷がやけに静かだったんじゃ。ちょいとはばかりに立つふりをして覗いてみたら、巨漢のはげ男がひとりで気分よくしておるでの。これは興なりと思ったがそろそろ膳が運ばれてくると思って座敷に戻ろうとしたら、ほれ、あの男が庭の木の陰からじっと覗いておったのじゃ」
 アレキサンドラはナキアの言葉で、もしかしたらこの番頭がミッタンを殴った張本人ではないかと思った。
 子供のないミッタンには店を継ぐべき後継者はない。
 そこに漬け込んで番頭のこの男が一切を取り仕切れば、あの大店を我が物にできる。
「お義母さま、ありがとうございます。これでよくわかりました。お義母さまでも時には役に立つんですねぇ」
 アレキサンドラはナキアの手を取って礼を述べた。が、最後の一言がナキアには癇に障ったらしく、
「たまにはとはなんじゃ? 失敬な。そんなんだから最近の嫁はまったく…」
と怒り出した。が、やはりずいぶん酒が入っていたと見え、アレキサンドラの肩に倒れこむと、そのまま大鼾をかいて全体重をアレキサンドラの肩に預けてくるのだった。

 盆栽屋あゆみ屋の番頭はゾラといい、あゆみ屋譜代の番頭であるらしい。
 人柄もまじめ一徹で、どちらかというと臆病な部類に入るというが、そういうひとに限ってなにか問題が起きると爆発して手がつけられなくなるという俗説はあるにはある。
 アレキサンドラはそれとなくユーリやあゆみ屋の近所で番頭ゾラのひととなりを聞いてまわったが、これといって得るものはなかった。
 だがナキアの証言でもある通り、ゾラがあの事件のあった日に加納屋にいたことは事実らしいから、アレキサンドラはそれとなく本人に当たってみようと思った。
 あいにくジュダは夕べのみ過ぎてナキアとともに潰れているから、今日はひとりで乗り込まねばならぬ。
 不安はあるけれど、武者震いにも似た興奮がアレキサンドラにはあった。
「ごめんくださいまし」
 あゆみ屋の暖簾を掻き分けておとなうと、奥からゾラ自身が半纏姿で現れた。
「いらっしゃいませ、どのようなものをお探しでしょう?」
「…いえ…あの、ミッタンさんのご容態はいかがかと思いまして…」
 アレキサンドラはゾラを目の前にしたらなにから切り出していいか判らず、ずっと頭の中で考えていた言葉も緊張で出てこなかった。
「お手前は?」
 いぶかしんでゾラはアレキサンドラの名を聞いた。ユーリの家であったことは覚えていないらしい。
「上野の薬屋のアレキサンドラと申します。…先日浅草の呉服屋さんでお会いしているんですけど…憶えてらっしゃいませんか?」
「…確かに曙屋さんへは伺いましたが…そうですか、これは失礼いたしました」
 カイルの店は浅草で随一の呉服屋である。浅草の呉服屋といえばそれだけで名前が知れていた。
 ゾラはうやうやしく頭を下げて、用件の趣を聞きながら上がり端に座布団を進めた。
「今日は…実は、ミッタンさんの事件があった夜、あなたがどちらにいらしたかを伺いに参りました」
「…わたしが? なぜです? それに、どうしてあなたにそんなことをお答えしなければならないのでしょう?」
「それは…そちらをあの夜の料亭で見たという方の話を聞いたものですから…」
 しどろもどろになって話すアレキサンドラをゾラは明らかに見下した言い方で、
「なにをおっしゃいますか、私は旦那さんが出ておいでになるのを待ってたんですよ。火急の用事が入ったんですが、旦那がいい気分でいらっしゃるのを邪魔するのも悪いと思いましてね」
と悪びれずに言ってのけた。
「でも…」
 ひとつ身を乗り出して詰め寄ろうとするアレキサンドラの前で、ゾラはせせら笑いすら浮かべて、
「それにあの夜は旦那も芸妓といい仲だったみたいですしね。それを邪魔するほど無粋じゃないですよ、わたしも」
と歯を見せてにやりとした。
 断固とした口調に、アレキサンドラが反撃できずに黙っていると、
「…まさかと思いますが、お手前はわたしを疑ってらっしゃるのですか?」
と、上目遣いで覗き込んだ。
 アレキサンドラは蛇にでも睨まれたかのように、背筋にぞくりと旋律を覚えながら、
「でも、あなたは昨日、加納屋で大騒ぎしていたじゃありませんか。旦那さんが臥せってらっしゃるいま、そんなことなさりますか?」
と、心持ち語尾を強めた。
 だが、それでもゾラには通じないのか、
「若奥さんにはお判りになられないでしょうけど、男にはぱーっと騒ぎたくなるときがあるんですよ。まぁ、旦那さんにお聞きになればいい」
と、まるで小馬鹿にでもするかのように懐から扇子を取り出して掌をぽんと叩いた。
 アレキサンドラはいままで感じたことのない不快感とゾラという人間に対しての不潔感を感じて、もはや一秒たりともこの場で同じ空気を吸いたくないと思った。
 勢いよく立ち上がると頭を軽く下げただけで店を飛び出したが、すぐそこの角を曲がったところでふっと立ち止まった。
 ちょうどそこはあゆみ屋のお勝手口で、木戸の向こう側にあるのは台所らしく、ちろちろと燃えるかまどが見えた。
 かまどのすぐ近くにすすけた薪が転がっており、なんてだらしがないのかしら、と思いながら、それよりもゾラに対する不潔感で、アレキサンドラは早く家路に着きたいために再び駆け出した。

 川のそばまでやってくると、アレキサンドラは向こうから玄人の姐さん風の女性がこちらへゆっくりと歩いてくるのを見つけた。
 よく見ればそれは夕べお座敷で会った鴫吉姐さんで、姐さんのほうでもそれと判ったらしく近づくに連れにこやかな顔になり、
「確か、アレキサンドラさまでしたね。ナキアさまのところの」
と頭を下げて夕べはご無礼を、と詫び、
「あれからお姑さまはお元気でいらっしゃいますか? ずいぶんお酒を召されてらっしゃったから、お潰れになられたのではないかと心配しておりましたのよ。またおそろいで遊びにいらしてくださいましね」
とにこやかに笑うのだった。
 そういえば、このひとのことは方々から噂を聞いていたけれど、こうして二人きりで話すのは初めてだった、とアレキサンドラは気が付いた。
 近くで見ると華やかな顔つきがいっそう水際立って見え、紡ぎだす一言一言もまるで彩の糸を織り成すかのように耳に心地よい。
 ジュダはまだシュバスを疑っているらしいが、アレキサンドラは昨日から番頭ゾラを睨んでおり、鴫吉に会ったのもいい機会とばかりミッタンの事件のあった夜の料亭での出来事を訊いた。
「あの夜はミッタンさんにはあてがお付きしました。いつもなら豪快に芸妓たちを舞わせて賑やかに呑むのがお好きなお方が、あの夜ばかりはあてひとりだけでかまわないとおっしゃりまして…いま思えば、なにかを予期されていたのでしょうか」
 戦に赴く前に心を鎮めて呑む、覚悟の盃のようでございました、とアレキサンドラに向かって語る鴫吉の言葉には、どこか寂しさが篭っていた。
 ついつられてうつむいてしまったアレキサンドラだが、はっと気がついて、
「…あの、いま、ミッタンさんについたのは鴫吉さんだけだとおっしゃられました?」
と顔を上げた。
「ええ、あの夜はあてだけでしたわ」
「…………」
 アレキサンドラはぽんと手を打つと、
「ありがとうございます、鴫吉さん!」
と頭を下げてきものの裾を持ち上げると一目散に家までの道を駆け出した。
 


          

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