陽の翳る午後 第二話



 予想していたよりはるかに明るい部屋に、夕梨は不思議な気持ちで窓に近寄った。
「どうかしら、悪くないでしょう?」
 弾んだ声が背中越しに聞こえる。
「そうだね、貰っていいの?」
 穏やかな声が応えている。
 幼い頃からのアメリカ暮らしだったが、彼の言葉に不自然さはない。
 多少同年代の少年達よりは言葉遣いが柔らかいぐらいか。
「聡が・・・叔父さんがいいって言うんだからいいんでしょう?」
 いつもより華やいだ義母の声。
 数年ぶりに合う孫の姿に、気持ちが弾むのだろう。
 なかなかやってこない娘夫妻に焦れて、義母たちは幾度か渡米したこともあったはずだ。
「どうせ使わないんだし」
 見下ろすと玄関前に植えられた槇の木が視界の半分を占める。
 刈り込まれた枝がこんもりと盛り上がっている。
 あの木はあんなに大きかったかしら。
 夕梨はぼんやりと考える。
 そうか、成長したんだ。
「ベッドと、机と・・・本棚も、ね。軽トラで運べるんじゃないの?」
 最後の方の言葉は自分に向けられているのを感じて、夕梨は振り返った。
「多分、運べると思います。何軒か運送屋さんに聞いてみれば・・・」
 目の前の本棚はほとんど空に近い。
 以前は教科書や趣味の本が雑多に詰め込まれていたはずだった。
 その棚に埃が積もっていないのを認める。
 この部屋の主が家を出ても、義母は毎日掃除を欠かさないのだろう。
「いっそ、ここに住めば簡単なのにね」
 義母は笑うと、カイルの肩を押した。
「お茶を入れてくるから、座っていて」
 机の傍の椅子を引くと、カイルは素直に腰掛ける。
 部屋に他に腰掛ける場所はないので、夕梨は仕方なしにマットレスがむき出しのままのベッドに腰を下ろした。
 かすかな軋みの音を耳にしながら、もう一度室内を見まわす。
 記憶の中にある部屋と、変わったところを確認する。
「叔父さんが使っていた部屋なんだね」
「そうね、まだ充分綺麗だわ」
 思い出の中で、いつしか部屋はセピア色をしていた。
 だから壁紙やカーテンの色の鮮やかさに驚く。
 義父がこだわったのだという、木製の家具のニスの色もつややかなままだ。
「お祖父さんがね、いいものは一生使えるからって選んだらしいわ」
 結婚してすぐは都内の社宅に住んだ。
 狭いスペースには持ち込める家具も限られていて、義父の嘆きを聞きながらも置いていくしかなかった。
 夕梨の目が、ヘッドボードの欠けた部分にとまった。
 木材の滑らかな曲線の途中にある、白い傷。
 コンポを動かそうとしてぶつけたのだと聞いた。
『せっかく買ったばっかりだったから、壊れたかと焦ったよ』
 そう聞かされたのはいつのことだっただろう。
 ちょうど、寝ころんで見上げる位置にあった傷。
 不思議に鮮明に残る記憶。
 そうか。
 夕梨はその場所に引き戻される。
 照れくさそうに背中を向けた『彼』は訊ねた。
『のど乾いてるだろ、なにか持ってくるよ』
『ねえ、氷室』
 背中を見ているのが恥ずかしくて、視線をさまよわせた先にその傷はあった。
『ここのところへっこんでる、どうしたの?』
 手で触れようとして、ずれた掛け布団を慌てて引き上げる。
 振り向いた『氷室』はまぶしそうに目をすがめた。
 蝉が鳴いている。
 あれは夏の終わりだった。
 窓の外には、まだ植えられたばかりの若い槇の木が頼りなげに揺れていた。
「懐かしい?」
 不意に現実が戻ってくる。
 目を上げれば、正面に琥珀色の瞳。
 カイルは横座りした椅子の背に肘をかけて口元を薄く笑みを刷く。
「なんだか、思い出に浸っているみたいだ」
「・・・そう?」
 今しがたの記憶が後ろめたくて夕梨は目をそらした。
 あの日のことを思い出すなんて。
 それも、カイルの目の前で。
「叔父さんとは幼なじみなんでしょう?」
 言いながらカイルは立ち上がる。
 物珍しげに、天井から下げられた鳥の形のモビールが揺れるのを眺めている。
「中学校の時に同じクラスだったのよ」
 最初は淡い想いだった。
 初めてこの部屋を訪れた時、自分も今のカイルのように物珍しげに見まわしたはずだ。
 その時はモビールはなかった。
 最初は壁に貼られたポスターについて言葉を交わした記憶がある。
 モビールがこの部屋に飾られたのはいつのことだったか。
 何度も訪れた記憶を探ろうとする。
 腰を下ろすだけで緊張した中学生の頃。
 寄り添って時を過ごしたこともある。
 カチリと鍵のかかる音ももどかしく求め合った時間。
「ここにも、よく来た?」
「そりゃ・・・」
 小さな軋みと共に身体が揺れた。
 カイルが隣りに腰を下ろしたのだと知った。
「つきあい、長いから」
 さりげなく立とうとした時、身動きが封じられた。
 身体を締め付ける熱気を感じる。
 抱きしめられたのだと、すぐには理解できなかった。
 懐かしい匂いにおし包まれる。
 それは日の光を浴びた枯れ草を思い出させる。
「・・・!」
「もっと早くに生まれてくればよかった」
 耳元を熱のある息が掠めた。
 夕梨は息を詰めた。
「・・・そうすれば・・・」
 声は遠い場所から響いてくるようだ。
 振り払うことも出来ずに強張った身体が、突然、浮力を得たように自由になった。
 崩れる身体を片手をついて支えた。
 軽やかな足音に、カイルが素早くドアを開いた。
「まあ、ありがとう!」
 ちょうど階段を上がりきった義母が声をあげた。
「持つよ、お祖母ちゃん」
 両の手に捧げられた盆を取り上げながらカイルは何ごともなかったように微笑んだ。
「冷たいのがいいかと思って」
「まだ暑いからね」
 水滴をつけたグラスの中で氷がからからと音を立てる。
 夕梨は知らずに自分の肩を抱きしめた。
 急に自分のまわりだけ冷気に包まれた気がした。
「コーヒーなの、夕梨さんミルク入れるでしょう?」
「ぼくはストレートで」
 小さな笑い声が上がった。
 滲む視界に、あの傷が映る。
 あの時から、なにひとつ疑問に思わずに来たはずなのに。
 カイルが低い声で何かを話している。
 どうして。
 どうして抱きしめたりするの。
『もっと好きな人ができるかも知れない』
 幼いカイルの澄んだ声が聞こえる。
 そんなことが起こるはずがない。
「夕梨さん、入れたわよ」
 義母の声に顔をあげる。
 グラスが涼しい音を立てる。
「・・・どうぞ」
 グラスを差し出したカイルの顔を見上げる。
 色の薄い前髪の間には、不思議な色をたたえた瞳。
 通った鼻梁と、整いすぎた顔。
 カラリ、と氷が揺れる。
 夕梨はのろのろと腕を伸ばした。
 そんなことが起こるはずがないのに。
 グラスの表面を滑り落ちた滴が指先を濡らした。
 夕梨の指がグラスにかかった時、カイルの口元に微笑が浮かんだ。
 何を考えているのか、心は見えない。
「ありがとう」
 声がかすれているのが分かった。
 そんな馬鹿な。
 カイルの口元に魅せられたまま、夕梨は思う。
 心の見えない相手に惹かれるなんて。
 遠い昔に感じた痛みが胸によみがえる。

 これは、恋だ。

 夕梨は目を逸らせないままに、唇を噛みしめた。


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