陽の翳る午後 第三話



 夫の指がネクタイを結び始める。
 日常過ぎてなんの感慨もないまま、夕梨は機械的に上着を差し出した。
「予備校に行くんだって?」
「え?」
 たいていの会話は夕梨の方から切り出されることが多かったために、夫の言葉に戸惑う。
「カイルだよ」
 流れるような動作で上着に袖を通すと、氷室は台所の方にあごをしゃくって見せた。
「ハイスクールとこっちじゃ勉強の傾向が違うからって」
「ああ・・・そうね」
 娘の高い声が聞こえてくる方角を見ながら、夕梨は頷いた。
「受験生だもんね」
 どこかでほっとしている。
 血の繋がらない甥と二人きりで過ごす一日は気詰まりだった。
「不慣れなんだから、良さそうなところ調べてやれよ」
 カバンを受け取って氷室は笑った。
 右の口の端が少し上がる、初めて会った時からの変わらない笑顔だ。
 この笑顔に惹かれたのだと夕梨は思う。
 不意に、背広の胸元にもたれかかる。
「なんだ、どうした?」
 戸惑いながらも、背中に腕がまわされる。
「・・・夏期講習に行ってたところ、どうかな?」
 まだお互いが恋人同士だった頃。
 長い夏休みを別々に過ごすのが嫌で、二人で同じ予備校の夏期講習に通うことにした。
 都心までの通学はそれだけでデートになった。
「いいんじゃないの?」
 笑いながら氷室は夕梨の肩を掴んだ。
「あのへんも変わったとは思うけど。一度二人で行ってみようか?」
 最後の言葉はささやきになる。
 氷室もまた、あの頃を思い出しているのだ。
 まぶたに唇を受けながら、夕梨は思う。
 二人で歩んできた道は幸せだった。
 なにも間違えてなどいないのだと。
「急がないと遅刻だ」
 氷室は腕時計に視線を落とすと夕梨を離して、慌ただしく玄関に向かう。
 後を追い、廊下を通りながら訊ねる。
「今日、遅いの?」
「まっすぐ帰ってくるよ」
 微妙な熱を孕んだ氷室の目を見ながら、夕梨は頷いた。
 その視線に隠されたものに、どこか安堵する。
 まだ、失われてはいないのだ。
「あ、パパぁ、行ってらっしゃい!」
 戸口から優美が声を張り上げる。
 とたんに氷室は父親の顔になった。
 どこまでも娘に甘いが、ときどき古い人間のごとく頭の固い父親。
 男親にとって娘は最愛の恋人なのだと、なにかで読んだことがある。
 氷室の視線は夕梨を素通りして、キッチンに注がれる。
「行ってくるよ!」
 笑顔を残してドアが閉まる。
 夕梨はため息をついてキッチンに向かった。
「優美ちゃんものんびりしてられないでしょう?」
「分かってるって!」
 言いながら優美は椅子からすべり降りる。
 短いスカートがめくれて白い腿が覗いた。
「お弁当、持った?」
「持った、持った!」
 大きすぎるカバンを引き寄せてから優美は悲鳴を上げる。
「ママ、部活のウエアどこ?」
「昨日、洗濯したの置いたでしょ?入れてなかったの?」
 だって、と口を尖らせている娘に背を向けると、夕梨は階段の下を見る。
 案の定、昨日のままに畳んで重ねてある体操服を取り上げる。
「やだやだ、遅れる!」
「のんびり喋っているからじゃないの」
 手の上からひったくるように体操服を掴むと、それでも優美は穏やかにコーヒーカップを傾けている人物を振り返った。
「ね、カイル!予備校行くならあたしが連れて行ってあげる!」
 カイルは顔をあげると微笑んだ。
「嬉しいな」
「優美ちゃん、クラブがあるでしょう?行ってるヒマがあるの?」
 夕梨は名残惜しそうな娘の背中を押した。
「じゃあ、ママと行くの?ずるい!」
 どきりとした動揺を押し隠し、笑顔を浮かべる。
「遅刻するわよ」
 優美はまた悲鳴を上げると、靴に足を突っ込んだ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。忘れ物、ない?」
「分かんないよぉ!」
 乱れた足音と共にドアが閉まった。
 くすりと笑い声が聞こえた気がして、夕梨はカイルを振り返った。
 キッチンの入り口にカイルが立っていた。
「困った子よね?」
「でも、かわいいですよ」
「・・・そう」
 自分でも驚くほどがっかりした気分で、夕梨はキッチンに戻った。
 食べ残しの皿を重ねながら、 徐々に緊張する。
 いつもなら、この時間はほっと一息つく時間だった。
 流しに皿を入れると、ゆっくりコーヒーを味わう。
 氷室が投げだした朝刊を拾い上げ、目を通す。
 けれど、今は違う。
 二人きりで取り残されてしまうのだ。
 どうせ緊張しているのは自分だけだろうと自嘲する。
 先日、カイルに抱きしめられたのはたちの悪いからかいだったのかも知れない。
 今だってぎこちなく動く夕梨を見て、彼は内心楽しんでいるのかも知れないのだから。
「予備校、いくつか回ってみる?」
 視線を合わさずに話しかける。
「説明も聞かないといけないし、保護者同伴の方がいいでしょう?」
 保護者、という言葉を強調する。
 自分はカイルよりも長く生きていて、決してからかっていい対象ではないのだと。
「そうですね」
 素直な言葉に、また肩すかしを食らった気分になる。
 彼の倍ほども生きているのに、感情のコントロールに苦労してしまう。
 夕梨は黙って朝食を口に運んだ。
 ボリュームを絞ったニュースと食器のぶつかる音だけが響いている。
 カチャリとカップが置かれた。
「・・・夕梨さん」
 背筋に走った震えを、無理矢理押さえ込んだ。
「おばさん、って呼んだら?」
 無表情を装い、新聞から目を上げない。
 彼の育った国では名前を呼ぶのが普通。でもここは日本だ。
「呼べないよ」
 言葉に混じった不機嫌を感じて、思わず顔をあげた。
 また、綺麗な顔を真っ正面から見てしまった。
 彼は腹を立てているのだろうか。
 柔らかさを失った表情は、彫刻のような印象を与える。
 氷室とは血のつながりがあるはずだ。
 けれど見ているだけで安らぐような親しさはカイルにはない。
「呼べるわけないでしょう、好きな人を」
 言葉が、夕梨を突いた。
 一瞬息を止め、それから怒りがわき上がってきた。
「からかわないで」
 なんのつもりで彼は自分を弄ぶのだろう。
 自分には夫も娘もいて、幸せに暮らしているのに。
 急に現れた彼に自分を振り回す権利など無いはずなのに。
 彼のさりげない言葉が、忘れかけていた「女」を思い出させたのだとしても。
「からかってません」
「やめなさい!」
 夕梨は荒々しく立ち上がった。
 椅子が大きな音を立てた。
 怒りで目が潤む。腹を立てる権利はあるのだ。
「子どものくせに、大人を馬鹿にしているの?」
 子ども相手に、大人が真剣に腹を立てているのだ。
 大人げがないと、どこかで思う。
「好きで子どもなわけじゃない!」
 一瞬、琥珀の瞳が金色を帯びた。
 カイルも立ち上がる。
 並べば見上げるほどに高い。
 彼もまた腹を立てているのだと、夕梨は悟った。
 だけど、なぜ?
「大人だったら良かった!」
 いつのまにテーブルを回ったのだろう。
 夕梨が思い巡らすひまもなく、強い腕で抱き寄せられる。
 ふりほどこうとすると、さらに力が込められる。
 息苦しさに、夕梨は涙ぐんだ。
「ずっと好きだったのに・・・」
「・・・一度しか会ってないわ。あなた子どもだったじゃない」
 強い態度を取りたかった。けれど、弱々しい言葉しか出なかった。
 ぴったりと胸に顔を押しつけられたまま、夕梨は力無くつぶやいた。
 流されてはいけないと、どこかで警鐘が鳴る。
「きっと、出会う前から好きだったんだ」
 声よりも、押し当てた胸から緩やかな熱が伝わってくる。
 その心地よさに夕梨は瞳を閉じた。
 頬を涙が伝ってゆく。
 氷室のはにかんだ笑顔。優美の甘えてすり寄ってくる姿。
 なにもかもが大切なのに。
「・・・いやよ、壊さないで」
 日々、意識することもなく守ってきた物を。
 あごに手がかかる。
 テレビは明るい笑い声をあげる。
 室内には焼きたてのパンとコーヒーの香り。
 いつもと同じ朝の風景だった。
 見上げれば涙ににじんだ視界にカイルがいる。
 どこか懐かしいと感じる声が低く囁いた。
「壊したい」
 夕梨は再びまぶたを閉じた。
 なにもかもが壊れてしまう。
 けれど、今なによりも欲しいモノは。
 
 唇を求め合う二人の身体がぶつかりテーブルの上からカップが落ちる。
 甲高い破砕音は、二人の耳には届かなかった。


  

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