陽の翳る午後 第四話
ずるいのかもしれない。
風であおられるシーツを押さえようとして、夕梨は手を止める。
青く晴れた空の高みには、絹糸のように白い雲が走っている。
秋が深い。
ウッドデッキに続く掃き出し窓の中からはカイルの視線を感じる。
焦がれる視線は夕梨の一挙一動に絡みつく。
視線の熱さは、そのまま彼の若さを思わせる。
こんなにもあからさまに思いのたけをぶつけることが出来るのは、彼がまだ大人の駆け引きを知らない少年だからだと。
そんなカイルと、想いを通わせることはひどく卑怯な気がする。
「なに、考えてる?」
忍び寄った腕が夕梨を抱きしめる。
肩に心地よい暖かさに、突き放そうとした決心は砂のように崩れ去る。
「・・・ダメ。誰かに見られたら・・・」
「見えないよ」
首筋に顔を埋めながらカイルは囁く。
二人の秘密を守るのは、風にはためく白いシーツ。
朝日のまぶしさが、目に後ろめたい。
「まだ、終わらないの?」
未練の残る腕をひきはがすように外すと、夕梨は洗濯籠を取り上げる。
水気を含んで重い布をたぐり寄せる。
風はもう冷たくなっているけれど、日差しはまだ強さを完全には失っていない。
それでももうすぐ一日では乾かなくなるのだろう。
「全部、干し終わってからね」
取りだしたのが夫の下着であることに気づいて夕梨は口をつぐむ。
気恥ずかしさや、かすかなとまどいは過去のこと。
何気ない動作に築きあげてきた日々が染みついている。
ずるいのだろう。
こんな風に彼を弄ぶことは。
応えなければ良かったのだ。
求められたからと理由をつけて、結局思い通りにコトを運んだのは自分なのだから。
「中で・・・待ってる」
カイルが背を向ける。
彼が目にした物に気づいて、夕梨は我知らず緊張する。
淡い色のレースは、彼女が身につけている物。
誰に見られることを想定もせず、ただ手触りの良さから選んだもの。
生身の女であることの象徴。
カイルにとって自分は遠い記憶の中の憧れの対象なのだろうか。
それとも、もっと生々しい欲望を向ける先なのか。
求められているのだから。
それ以上に求められるのかもしれない。
今ならまだ、引き返せる。
でも。
唇を噛みしめて、干し竿に手を伸ばす。
風に晒された指先は冷たい。
後でクリームを塗らないと、荒れてしまうと考える。
そのうち、荒れが習い性になるだろう。
家族のための日常を過ごすうちに、少しずつ損なわれてゆくもの。
ふと立ち止まった時に気づいて、たまらなく焦りを感じるもの。
だから、応えてしまうのかもしれない。
布を引いて形を整える。
心の逡巡とは関係なく機械的に作業は終わる。
「お待たせ」
笑顔を浮かべる。
心を隠すのに表情を殺すより笑うことを覚えたのはいつのことだろう。
待ちかねたようにカイルの腕がからみつく。
手元から滑り落ちた洗濯籠が床を転がる。
貪るように口づけられ、しばし浮遊感に身を任せる。
彼の想いはあまりにも素直すぎる。
やはりずるいのだ。
これほどまでに純粋に、恋に身をゆだねているわけではないのだから。
恋。
かっての甘やかな響きとは違う意味を持つ言葉。
「冷たい」
指先を掴んだカイルが眉を寄せる。
「水を触っていたから」
至近距離で見る頬を撫でる。
思わず見とれる端正なあごのライン。
整いすぎて現実感のない顔。
夕梨の身体を抱きしめたまま、カイルはソファに身体を沈める。
膝の上に座るかたちで、夕梨は少年の顔を見下ろす。
この顔がいけないのだわ。
そう考えてしまってから思い直す。
また、うまく立ち回ろうとしている。
「お湯を使えばいいのに」
「手が、がさがさになるでしょう?」
唇をなぞった夕梨の指を、カイルは口に含む。
指先に絡まる、現実感のある感触。
手を引こうとして、腰にまわされた手に阻まれる。
暖かい舌先が、指から付け根、手首へとなぞり始める。
ぞくりと震えが背筋を走り抜けた。
彼の抱く想いは夕梨の想像するよりもっと猛々しいのかもしれない。
だから、拒めない。
「ダメ・・・」
甘い痺れが身体を浸す。
自由な左手で覆いかぶさる胸を押し返す。それは形だけで力は入らない。
「どうして?」
顔をあげたカイルが訊ねる。
薄い色の瞳は、純度の高い欲望を湛えている。
熱にかすれた声がまた夕梨の背を駆け上がる。
「・・・分かるでしょう?」
強く拒絶しないのは、卑怯だからだ。
罪悪感は針のように胸を突く。けれど、それ以上の期待が四肢から力を奪う。
求めて欲しい。
「分からない」
覆いかぶさる肩越しに、壁に飾られた青い皿が目に入る。
風車のある風景の描かれた皿は、夫と二人でヨーロッパを旅行した時に買った。
数年遅れの新婚旅行。
両親に預けた優美は、空港でお土産をねだった。
やっぱり一緒に連れてくれば良かったと旅先で何度も受話器を取り上げた。
夕梨はまぶたを閉じる。
この家のすべてが卑怯な振る舞いを糾弾する。
閉ざしてしまえば、それらは遠のき、互いを求める息づかいだけが響く。
まぶたの裏に赤い闇が広がる。その柔らかさに身体を投げだす。
性急な指先が服の下に忍び込んでくる。
カイルの指は親しんだものとは違う手順で夕梨を探る。
砂地が水を求めるように肌は指を受け入れる。
氷室と出会ってから歩んできた道を間違いだとは思わない。
踏み外そうとしているのは今の自分なのだから。
ごめんなさい。
誰に対しての謝罪なのかも分からないまま、夕梨はつぶやく。
腕をまわしたカイルの肩は薄い。
まだ細い骨格にしなやかな筋肉だけを纏っている。
やがて年月を重ねるごとに肩は厚みを増し、少年は大人になっていく。
流れる時の与える変化を夕梨は知っている。
同じように時を重ねてきた夫の身体で。
肌に痛みを感じて、夕梨は眉を寄せた。
たった一人しか知らなかった肌にカイルが跡を刻みつける。
肌の上に血の色が滲むのを感じる。
これは罪の痛みだ。
「ごめん、痛かった?」
気遣う声に、まぶたを閉じたまま微笑む。
許されないことは知っている。
けれど寄せた肌から弾む力が伝わってくる。
彼の時間はやがて夕梨を置き去りにするだろう。
だから、せめてこの瞬間だけでも、彼を所有したいのだと思う。
ごめんなさい。
とても卑怯だわ。
それでも、欲しいの。
赤い闇に身を任せたまま、夕梨の腕は弧を描いてカイルを包んだ。
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