陽の翳る午後 第五話



「好きよ、カイル」
 胸の上で黒髪が揺れた。
 指の間をすり抜けていく黒い流れをぼんやりと見つめながら、カイルは微笑む。
 どこまでもしなやかに絡みつくそれは、カイルの指が動くと虹の輝きを放つ。
 濡れた色は肩のあたりで広がり、細い肩口を覆っている。
 無心に指を遊ばせながら、カイルは目をすがめる。
「ねえ、あなたは?」
 つと顔をあげて、灰色の瞳が訊ねる。
 下まぶたが少し膨らんでいて、時間をかけてカールした睫毛がせわしなく揺れた。
 つんと上を向いた鼻先や、下唇を突きだす話し方は幾度も繰り返されたのだろう媚態を形作る。
 カイルは無言で女の肩を押しやった。
「・・・言わないのね」
 あまり気にしていない風に女は笑う。
 いましがたの交歓で艶を増す唇から舌先がちらりとのぞく。
「まあいいけど。週末は一緒に顔を出してよね?」
 勢いよく身体を起こすと、薄い胸板の上、不釣り合いな乳房が重く揺れる。
 向けられた背中にはうっすらとそばかすが散っている。
 カイルはかみ合わない違和感に顔をしかめる。
 きめの細かい肌は滑らかに光を弾いていたはずだ。
 それが誰のことだったのか思い出せない焦燥がある。
 手早く衣類を身につける女の背中に二重写しにむき出しの肩が重なる。
「迎えに来てよね」
「・・・車、持ってないんだ」
 カーテンの引かれていない窓に目をやりながら口の中でつぶやく。
 父親に車のことを交渉するのも億劫に思われる。
 月に一度、第四週の週末には恒例のパーティが開かれる。
 そこに連れだって顔を出すのは、二人の関係を公に知らせることでもある。
 腕にぶら下がるようにしてうわずった声でさえずり続けた同伴者の顔を、カイルはもう思い出せないでいた。
 出席するたびに違う相手と現れるカイルに、どのような風評が立っているのかは知っている。
 それでも、女たちは媚びを作ってすり寄ってくる。
 彼の横に立つことは一種のゲームなのだろうか。
 勝利者の獲得物として、カイルは会場に立つ。
 彼女の健闘をたたえる言葉の裏で、誘う視線が投げかけられる。
 今回の女は窮屈なジーンズに脚を押し込むと、エナメルのパンプスを引き寄せた。
「恥はかかせないでよ?」
 振り向きざまに、唇が重ねられる。
 顎をあげてそれを受け止めると、視界に黒髪が揺れる。
 カイルは光に踊るそれにしばし気を取られる。
 ただ一度のことだと承知しているのかもしれない。
 その一度で、プライドは満たされるものなのか。
 カイルにはいまだに理解できないでいる。
「じゃあね」
 ヒールがオイルステンの床板を刻みつける。
 紺の厚布に包まれた細い脚がコンパスのように戸口に近づくと勢いよくノブが回る。
 大きな音を立ててドアが閉まると、カイルは上半身を起こした。
 シーツには甘ったるい動物性の香りが残されている。
 顔をしかめてそれをはぎ取ると、床に落とした。
「こりごりだな」
 それでも、探してしまう。
 誰をあざけるのか分からずに、カイルは口元をゆがめた。
 残り香を追い出すために窓を開け放つと、脱ぎ捨てられたジーンズを身につける。
 息をつくとサイドテーブルの上に伏せられた写真立てを取り上げる。
 並ぶ家族の写真。
 ハイスクールに入った年に家の前で写したものだ。
 繊細な銀の輝きを放つフレームをしばらく撫でたのち、カイルはそれを裏返した。
 留め金を外すと、ボードの裏に押し込められたもう一枚が現れる。
 並ぶ別の家族の写真。
 母親とよく似た顔つきの一人の上に親指を載せる。
 膝の上に幼子を抱き上げた女性が笑いかける。



「ブルネット」
 唐突にかけられた声に、引き戻される。
 ランチタイムの終わったカフェテリアはそれでもまだほとんどの席は埋まったままだ。
 カイルは声のした方を振り向く。
「またブルネットだな」
 見知った顔が肩を小突く。
「なんの話だ?」
 にやりと笑って顎で示された方を見る。
 申し訳程度に並べられた観葉植物の脇で昨日の女が片手を挙げている。
「好きだねえ、そんなにいい?」
 馴れ馴れしく回された腕を払いのける。
 どうせ、女が吹聴してまわっているのだろう。
 秘め事のはずの情事を得意げに語る心情は一生理解できないのかも知れない。
 羨望と、潜まされた冷笑を受けるのはそんなに心地よいことなのだろうか。
「やっぱり、黒髪好きは母親の影響?」
 黙ってテキストに視線を落とす。
 そうなのかも知れないと思ったこともある。
 その母があの写真を差し出すまでは。
「でも、あいつ染めてるぜ?」
「知ってるさ」
 ペンシルの先がテキストをつつく。紙の白さが目に滲む。
「あっそう、ま、あっちを見れば分かるか」
 潜めた笑いには揶揄がある。
 カイルは声を閉め出そうと、こめかみに指をあてる。
『好きよ、カイル』
 上滑りの言葉は実を伴わないからだ。
 体だけが熱くなる時間の後で、うしろめたさを押し潰すために吐き出される言葉。
 そうじゃない。
 カイルはテキストのまぶしさに視界を奪われる。
 いつしか、鮮明にヴィジョンが浮かび上がる。
 白く重なるのは滑らかなサテン。
 フワリと広がったレース。
 さらさらと清冽な衣擦れの音が響く。
『一番好きな人なの』
 潤んだ黒い瞳。
「俺はブロンドの方が好きなんだな。スクールの女がみんな黒髪になったらおまえを恨むぞ」
「なるわけないだろ」
 白く華奢な手が伸ばされる。
 その温かさも、柔らかさも待ちかまえたものだったのに。
 どうして?
「で、どうする?」
「なんだ?」
「つき合うの?」
「どうかな」
 触れることのなかった手のぬくもりを知っている気がした。
 どうして?
 望遠鏡を覗くように、幼い頃の記憶がたぐり寄せられる。
 彼女は笑うのだ。
『お姉ちゃんはお兄ちゃんのことが好きだからよ』
 ゆるぎない自信が、光となってこぼれ落ちる。
 どうして、あんなふうに笑えるのだろう。
『本当に?』
 運命という言葉は知らなかった。
 でも、あの時、幼い自分の中で軋みをあげたものは確かにそれだった。
 泣きだしたい気持ちを抑えて、幼いカイルは瞳を大きく見開く。
 どうして?
『本当よ。一番好きな人なの』
「なあ、おまえっていいかげんだな。女たちはクールだって勘違いしてるけど」
「そうか?」
 カイルはテキストを閉じると、プラスティックのスツールを押しやると立ち上がる。
「そうかもしれないな」
 理解できないままに年月を重ね、やがて写真が差し出される。
 幸せな家族の姿。
 妻の愛情に落ち着いた夫の姿と、家庭の暖かさに慣れた妻の姿、腕の中で笑う幼子。
『だって、分からないよ・・・もっと好きな人ができるかもしれない』
 彼女は笑っている。
 白紗のベールで隠されていた髪が、黒く艶やかに光を弾いていた。
 自分の関与しないところで流れた時間。
 もう一度、身体の中で何かが軋んだ。
 それは確かに痛みをともなった。
 馬鹿なことを。
 彼女を眺めながらつぶやく。
 いったい、これはなんだろう。
 平面の中の微笑みが目を捉えて離さない。
 無意識に一人を消して、理解する。
『どうして?』
 どうして、その人を選ぶの?
 どうして・・・あなたのとなりにいるのはボクではないの?
 だから拒んだ。
 本当は触れられたかったのに。
「あ、センセイのとこ、行く?」
 相変わらず、カイルの思考には気づかずに彼は言う。
「俺も行こう。進学のことで相談があるから」
 観葉植物の向こうに女の姿はもうない。
 校内の演劇グループに所属していると聞いた。
 そうそう暇にもしていられないのだろう。
「・・・なあ、いっそ日本の大学に行けば?ブルネットばっかりだぜ?」
 すれ違うチアガールに口笛を吹きながら、彼は言う。
 くすくす笑いが背中越しに消えて、カイルは立ち止まる。
「日本?」
 だって、分からないよ。
 もっと好きな人ができるかもしれない。
「そうか」
 冗談と受けて、彼は笑った。
「そうそう」
 昼下がりのけだるい光が、細長い廊下のリノリウムに鈍く反射する。
 フワリと幻視が広がる。
 裾をつまんだ花嫁の姿。
 カイルはゆっくり腕を延ばす。
 ほかにこの痛みを消す方法がないのなら。


 だって、分からないよ・・・もっと好きな人ができるかもしれない。
 

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