陽の翳る午後 第六話



 どこかでベルが鳴っている。
 夕梨はうっすらと目を開けた。
 一定のリズムで髪を梳いていた手が止まる。
「起きた?」
 のぞき込む瞳は、カーテンがぴったりと閉じられた室内で不思議に昏い色をしていた。
「電話、鳴ってるみたい」
 口を開けば気だるい声が漏れる。
 絡みついた腕から抜け出そうとすると、いっそう強く抱きしめられた。
 肌に擦りつけられた若い情熱に戸惑ってカイルの顔を見る。
「行かせない」
 そんなこと、と言いかけて夕梨は口をつぐむ。
 枕を背に上体を起こしたカイルの肩越し、淡い色で満たされた室内で小さな傷が光っている。
 緩やかな弧を描くヘッドボードに、いつかの記憶が刻み込まれている。
 この傷をいつも秘め事の後に眺めることになるのはなぜだろう。
 あの時も、抑えられない青臭い情熱をぶつけ合ったものだ。
 不思議に罪悪感を伴うことなく思い出す。
 心のどこかが麻痺してしまっている。
 閉ざされたドアの外、階段に続くリビングで軽やかな音を立てていた電話が沈黙する。
「切れたよ」
 夕梨はカイルの腕を外した。
「・・・困った子」
 カイルを子ども扱いするのは自分が優位に立ちたいからだ。
 これは遊びなのだと、年を経て経験を積んだ女がほんの気まぐれで若者に身を任せたに過ぎないのだと匂わせる。
 彼の勢いのある若さに溺れているのだと悟られたくない。
「困ってないでしょ?」
 カイルは虚勢を見透かしたように笑う。
 もう一度腕をまわすと、むき出しのままの胸をまさぐった。
「さっきあんなに・・・」
「やめて」
 胸元に口づけられて夕梨は眉を寄せた。
 彼の唇が触れたところから針に刺されるような熱が伝わる。
「・・・跡を、残さないで」
 突き離すだけの力を夕梨は持たない。
 襲いかかる奔流に身体を預ける心地よさを知ってしまった。
 だから、抵抗の言葉は言い訳にしか過ぎない。
 それを口にすれば免罪符を手に入れた気がする。
 罪を犯していることにかわりはないのに。
 カイルはまぶたを閉じた夕梨の顔を眺めると、再び胸のふくらみに覆いかぶさり、ゆるやかに上下する肌に歯をたてた。
「・・・っ!」
 痛みだけでない心地よさに、夕梨の腰が跳ね上がる。
 すぐに強靱な脚が絡みつき、動きを押さえ込まれる。
「見せられないな」
 誰に対するのか意地の悪い微笑みで、カイルが赤い罪の証を指先でなぞった。
 整えられた指先が、色づいた輪郭をたどり頭をもたげ始めた欲望を弾く。
 一瞬、浮かんだ夫の顔を追い払うと、夕梨はカイルの頭を抱き寄せる。
 現実のカイルを眺めている方が何も考えずにすむかもしれないと、瞼を持ち上げる。
 揺れ始める視界の中で、あの傷が光っている。
 あの時と同じような重みを身体で受け止めながら、夕梨は思う。
 同じなのに、違う。
 カイルを知るまで知らなかった。
 身体を合わせるという行為が、人によって違うだなんて知らなかった。
 触れる手順、指先のざらつき、肌の温度、吐息の速度。
 カイルよりも世界を知っているつもりで知らなかった。
 自分の前にはただ一人しかいなかった。
 誰と比較することもなく、疑問にすら思わなかった。
 カイルは知っていたのだろうか。
 胸の奥にほの暗い痛みが燃え上がる。
 嫉妬するなんて、まるで愛人気取りだ。
 夕梨は自嘲する。
 愛人以外のなんだというのだろう。
 恋人?
 そんなはずがない。
 カイルにふさわしいのは、細い脚とまだ固い腰のラインと光を弾く肌を持ち、颯爽と肩で風を切る若い娘なのに。
「あっ・・・」
 指の淫らな動きに声がこぼれる。
 今の夕梨には恥じらいよりも、惑乱のほうがふさわしい気がした。
 身体を浸しているのは背徳という毒。
 毒だからこんなにも甘く感じるのだ。
 だから、感情の一部が死んでしまうのだ。
 スプリングが軋みをあげる。
 覆いかぶさる肩口に爪を立てて夕梨はカイルを貪る。
 ヘッドボードの傷も、引かれたカーテンもなにもかもが遠のいてゆく。
 狭い室内に獣の息づかいだけが満ちる。
 純粋に相手を貪りたいという思いだけで突き動かされる。
 いやよ、壊さないで。
 壊したい。
 そうね、みんな壊れてしまっても構わない。
 夕梨は一瞬そう思った。


「のど、乾かない?」
 口にした言葉に、夕梨は秘かに嗤った。
 それを訊ねるのが自分のほうだなんて。
 枕を抱きしめてカイルが片目を開ける。
 彼にはこの質問の滑稽さが分からないだろう。
 清涼飲料水の名前を聞くと、夕梨は脱ぎ散らかされたブラウスに手を伸ばした。
 ボタンが一つゆるんでいる。
 性急に覆いかぶさった彼を思い出して、夕梨はまたおかしくなった。
 彼は若い。妬ましくなるほどに。
「取ってくるわね」
 ドアを開けると、火照った頬を風が撫でる。
 階段を下りながら、まだ熱を失っていない記憶を反芻する。
 この手におえない野生の時間を、夜が始まるまでには完全に咀嚼して飲みくださなければならない。
 ほつれた髪を撫でつけ、リビングを横切る。
 カウンターの上の電話機が録音ランプを点滅させていた。
 無意識にボタンを押し、冷蔵庫のドアを開けた。
 かがみ込んでペットボトルを取りだした時、ざらついた音が流れ始める。
「・・・さんの・・・悪いので・・・」
 生気のない年老いた男性の声だった。
 なんのセールスだろう、グラスに液体を注ぎながら首をかしげる。
 小さな気泡が底からわき上がるグラスを盆に載せると、夕梨はキッチンを後にする。
 リビングの戸口をくぐろうとした時、男の言葉の最後が聞き取れた。
「・・・早退させることにしました」
 いったい、なんの事だろう。
 玄関ホールで立ち止まったまま、夕梨は声の主を思い出そうとした。
 どこかで聞いたことがある。
 不意にブラウス一枚の背中に冷気を感じて夕梨は階段のステップに急いで足をかけ、唐突に思い出す。
 確か、今年が定年なのだと聞いた。
 優美の担任は、垂れ下がったまぶたが眠そうな印象を与える老いた教師だった。
 おじいちゃん、と生徒たちは親しみを込めて呼んでいた。
 早退させることにしました?
 優美になにかあったのかしら。
 押し寄せる不安とともに冷気がまた体を震わせた。
 具合が悪いから?
 ぞくりと肩をすくめる。
 なぜこんなに寒気がするのかしら。
 初めて違和感に気づく。
 風が吹いている。
 もう、季節は晩秋だ。換気の時以外は窓を開くことはない。
 外から風が吹き込みようがないのに。
 ステップから足を下ろすと、夕梨はおそるおそる振り返った。
 細く開いた玄関ドアが目に入る。
 風が吹くたびにゆらゆらと揺れながらも、ドアはなにかが挟まって閉ざされることはない。
 タイル張りの三和土の上になにかが落ちている。
 そこから延びた一部がドアが完全に閉まるのを邪魔していた。
 夕梨の手から盆が滑り落ちた。
 ガラスがホールの床で砕け散った。
 白い泡沫が弾ける中、夕梨は震える手で口元を押さえる。
 クリーム色の持ち手を伸ばしたまま、投げ捨てられたカバンを認める。
「・・・優美!?」
 呼応するように、ゆっくりと扉が外に開いた。

 扉の向こうには黄昏時の夕闇が無人の街路に広がっていた。
   

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