陽の翳る午後 第七話


 足もとから冷気が這い上がる。
 小さな泡沫をはねとばしていた液体が、素足に生ぬるく感じられる。
「どうした?」
 階段の半ばから声がかけられた。
 夕梨はよろめいて足を踏み出した。
「危ない!」
 肩に手がかけられ引き留められる。
「割れている、怪我するよ?」
 カイルが肩を包みながらささやいた。
「・・・なして・・・」
 かすれた声が意識せずに喉からもれた。
「離して!」
 間近の身体を突き放すと、夕梨はガラスの散らばる廊下から、土間に飛び降りた。
「夕梨っ!?」
 背中からかけられる声を無視して裸足のまま戸口に突進した。
 足の裏に痛みが走ったが、そのまま短い石畳を抜けて道路へと飛び出した。
 夜の闇が迫った空の下、ともりはじめた街灯が、人気のない道をまだらに照らしていた。
「いったい、どうしたんだ?」
 夕食の支度なのだろう、どこかの家から煮物の匂いが流れてくる。
「優美が・・・」
 追いついたカイルに言いかけて口をつぐんだ。
 今さらながら、自分がなにをしていたのかが分かる。
 不用意に誰かに聞かれてはいけない。
 夕梨は黙ってカイルの肩を押した。
 玄関のドアを閉ざすと、落ちたバッグを拾い上げる。
 それを認めると、カイルの顔から表情が消えた。
「優美の?」
 頷く夕梨に、大きく息を吐く。
「まだ帰ってくる時間じゃなかった」
「具合が悪いからって早退したのよ」
 眩暈を感じて、夕梨はこめかみを押さえた。
「聞かれたんだな」
 激しく交わしていた睦言を。
 夕梨はふらふらとかまちを上がった。
 カイルがガラスを踏まないように肩を誘導するのにも気がつかない。
 リビングの留守電を巻き戻すと担任教師の言葉を再生する。
 記録された時刻は2時半を過ぎたところだった。
「学校からここまで、どれくらい時間がかかる?」
 すでにリビングの時計はそれから2時間が経過したことを示している。
「多分、30分ぐらい」
 具合が悪いからもっとかかったかもしれない。
 いつも大声でドアを開ける優美が静かに戻ってきた。
 それだけでも調子が悪かったことが分かる。
 そして、静まりかえった一階を通り過ぎ、ふらつきながら階段を登った彼女が耳にしたのは。
 夕梨はリビングの床へ座り込んだ。
「どうしよう」
 見上げるカイルは困惑している。
 どうしようかなんて、彼に分かるはずがない。
 それにこれは自分で犯した罪なのだから、自分で始末をつけなければならない。
「優美はどこへ行ったんだろう」
 カイルの言葉に我にかえる。
「出て行ってから一時間以上立っているはずだ。具合が悪いんでしょう?」
 そうだ、どこへ行ったのだろう?
 夕梨は無理矢理立ち上がった。
「学校かもしれない・・・探してくる」
「出かけるなら、暖かい格好をしたほうがいい」
 カイルの言葉に身体を見下ろす。
 薄手のブラウスの中には、下着すらつけずに素肌がある。
 その肌には、言い逃れの出来ない罪の証が残されている。
 脚の間のべとつきがたまらなく厭わしいものに思える。
 唇を噛むと、リビングを抜ける。
 ガラスの破片で傷つけたのだろうかかとが痛んだ。
「ぼくも一緒に探す」
「あなたはここにいて」
 きつい言葉が口をついた。



 学校に着く頃には、陽はすっかり落ちてしまった。
 灯りの落ちた暗い窓を見上げて夕梨は知らずに拳を握りしめた。
 開かれた正門の前は二つの校舎に挟まれて教員の駐車場に使われているスペースがある。
 向かって左手の建物が教室棟でそちらの明かりはすっかり落ちている。
 右手が職員室や実験室が並ぶ管理棟で、いくつかの部屋が夜の闇に煌々と四角い光を放っている。
 二つの廊下を結ぶ渡り廊下をくぐった先に、ここからは見えないが体育館があり、さらにその外側にグラウンドが広がっている。
 普段、優美は体育館かグラウンドのどちらかで部活に参加しているはずだった。
 迷った末に、体育館に向かう。
 学校の他に娘の居場所が思い当たらなかった。
 入学してからというもの、優美はひたすら部活に打ち込んでいたし、その生活のほとんどを拘束されてもいた。
 その真っ直ぐな情熱の裏をかくように、自分たちは不義を重ねていたのだ。
 ジャリの敷かれた小道を踏みしめて近づいてゆくと、大声で唱和する挨拶が聞こえた。
 突然闇の中に四角く開かれたドアから、クラブを終えたばかりの部員達が賑やかにあふれ出してくる。
 夕梨は立ちつくして動けないまま、同じユニフォームに身を包むその姿を眺めた。
 スポーツタオルを首からかけ汗を拭いながら、部員達は冗談を交わし笑い声をあげる。
 ふざけて小突き合い、宿題の多さに愚痴を言う。
 おそらく優美もそんな平穏な毎日を繰り返してきたのだろう、今日までは。
 ここじゃない。
 夕梨は思った。
 衝撃を受けた優美が逃げ込む場所にしては、ここは安穏としすぎている。
 あの子は一人で泣いている。
「あっ!」
 小さな声が上がった。
「優美ちゃんのお母さん!」
 一年生なのだろう、体つきの幼い一団の一人が立ち止まった。
 すぐに見覚えのある顔が、走り寄ってくる。
「こんばんは」
 夕梨はここにいる理由をどう説明しようかと迷った。
 しかし、優美とクラスまでもが同じ一番仲の良い女生徒はなんの疑問も持たずに話し始めた。
「数学のプリント、届けようと思ってたんですけど」
「え?」
「なんかお昼ぐらいから具合が悪いって言ってて、保健室まで行ったら先生が帰りなさいって。
で、あたしが代わりに6時間目の宿題を聞いておくからって」
「そうなの、ありがとう」
 養護教諭が早退を勧めたほど、不調だったのだ。
 その優美の姿をまだ夕梨は見ていない。
 不安が胸を締め付ける。
 クラブボックスに向かって走り出した彼女の姿を見送りながら焦燥を感じる。
 ここではなにも情報は得られない。もっと他を探さなくては。
 どこかで倒れているのかもしれない。
 考えている間に女生徒は着替えもせずに戻ってきた。
 手の中でひらひらと白いプリントが揺れた。
「これです、これ。説明はメモってあります」
「ありがとう」
 息を切らせた彼女に無理に微笑むと夕梨は手を伸ばす。
「優美ちゃん、どうですか?」
 びくりと手が止まった。
「明日、大丈夫ですか?」
 口を開けば頬が震えた。
 どれだけ強張った表情をしているのだろう。
 体育館の明かりに背を向けているために、表情が見えないことに感謝する。
「・・・まだ分からないわ」
「そうですね、早く治ってね、って言っておいてください」
 笑顔が弾けた。優美が笑う時とよく似ている。
 まるでなにかに殴られたように夕梨はよろめいた。
 ずっとひとかたまりになって待っていた他の友人に、彼女は軽く手を挙げる。
「ごめんなさい、引き留めて」
 いいんです、とまた笑う。
「どうせ先輩が終わるまでボックスは使えないから」
 小走りに一団に戻った彼女を迎えて、また笑い声が上がった。
 その声に押されるように背を向ける。
 すぐにでもその場から走り去りたかった。
 けれど変に思われてはならない。
 保身のためではない、優美のためだ。
 彼女が過ごしてきた世界をこれ以上損なってはならないのだと、夕梨は痛み始めた頭で考えた。
 食事時にたしなめられながらも、夢中でその日にあったことを喋り続ける優美。
 先輩に目をかけられたことや、顧問にフォームを褒められたこと、新人戦の人選について。
 今朝だって元気に家を出て行ったはずだ。
 見送りに出た玄関が閉まると同時に、カイルの腕に凭れた。
 快楽に溺れることしか考えていなかった。
 これは、罰が当たったのだ。
 何喰わぬ顔で家族を裏切り続けていた自分に対しての罰が。
 一番傷つけたくないはずの娘を傷つけてしまった。
 裁かれるべきは自分なのに。
 堂々巡りの思考のまま夕梨は歩き続けた。
 やみくもに歩きながら、明かりのついた店をのぞき込む。
 バッグは玄関にあった。
 手ぶらのままでどこかに入れるはずもない。
 突然、恐ろしい考えに捕らわれて足が止まる。
 そんなはずはない。
 震える声でつぶやく。
「優美、どこにいるの?」
 答えはどこからもない。


 膝が震え出す。夕梨の喉から、細い嗚咽が漏れた。

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