陽の翳る午後 第八話



 陽が沈んでから風が勢いをました。
 人気のない街路を電線を震わせながら吹き抜けていく。
 両脇に並ぶ家の窓からは、暖かい光が漏れる。
 その窓の向こうには平和過ぎる日常の風景が繰り広げられているのだ。
 吹きつける風に胸元をかき寄せながら、夕梨は足を速めた。
 優美の卒業した小学校の校門は固く閉ざされているのを確認すると、夕梨の足は隣町に向かった。
 今の家に引越す前に住んでいた社宅は、歩くとすると大分離れている。
 それでも、夕梨はそこを目指す。
 近所には転校するまで通っていた小学校もある。
 引越す時、友達と離れたくないと優美は泣いたのだ。
 地鳴りのようにトラックの音が響いて、一つ角を曲がると4車線の道路が開けた。
 時々轟音とともに、制限速度を上回るトラックが走り抜ける。
 ここは危ないから近寄ってはいけないと、幼い彼女に何度も言い聞かせた。
 だからこの道までが優美の領域だった。
 ナトリウムランプの黄色い照明に中央分離帯が枯れた色をして浮かび上がる。
 明るすぎる道路とは反対に、対岸の町並みは闇に沈んでいる。
 痛む足を引きずって、横断歩道を探すためにあたりを見回した。
 車道と歩道の間には低い植え込みが続き、ところどころに街灯が丸く光の輪を落としている。
 環境美化の名目で置かれた彫刻が光の下にしんと立ちつくしている。
 夕梨の足が止まった。
 御影石で掘り抜かれた幾何学図形の彫像の脇に、小さな影を見つけたからだ。
 石のベンチに肩を落として腰掛けた姿は、濃紺の制服を身につけていた。
「優美」
 長い間使っていなかったかのように、喉はかすれた。
 震える膝を叱咤するように近づく。
 足音に、俯いていた姿が顔をあげた。
 白く血の気のない顔が無表情に夕梨を捉えた。
「優美・・・ちゃん・・・」
 喘ぐように、名を呼ぶ。
 優美の顔に一瞬走ったのは、嫌悪だと思った。
 弾かれたように立ち上がった姿は、夕梨に背を向けると駆けだした。
「待って、優美ちゃん!」
 もつれるように足を踏み出す。
 小さな姿が、植え込みを抜けて道路を横切ろうとする。
「優美、危ない!」
 一人でここまで来ては行けないと言ったのに。
 この道はトラックがスピードを出しているから、危ないのよ。
 幼い優美は真剣に頷く。
 瞬時に頭を駆け抜けた記憶に、夕梨もまた植え込みを越えようとした。
 ヘッドライトが視界を横切り、嫌なブレーキ音が響いた。
 ハザードランプの赤が闇に滲む。
 トラックのドアが開く音に、夕梨は道を突っ切った。
 なにごとか叫ぶ男の声がする。
 立ちはだかるトラックを回りきると、分離帯のかたわらに投げだされた白い脚が見えた。
 夕梨は悲鳴を上げた。
 のぞき込んでいた男を押しのけ、膝をつく。
「優美っ!」
 奇妙な体勢で身体を投げだした肩に腕をかけて揺さぶる。
「動かしちゃダメだ、頭を打っているかもしれない」
 抑えられる腕を振り切って動かなくなった体にすがりつく。
 アスファルトに黒く染みが広がり始めた。



 閉ざされたガラスのドアを見上げる。
 ドアの向こうは同じ幅の廊下が続いていて、いくつかの両開きの扉が並んでいる。
 手前から三つ目のドアに優美の乗ったストレッチャーが運び込まれたのは先ほどのことだった。
 ガラス越しに『手術中』のランプが灯っているのが見える。
 手術室と書かれたガラスのドアをくぐろうとして、看護婦に留められた。
『前で待っていたいんですけど』
『ご家族の方でもここまでです』
 長いすに腰を下ろしている家族らしき姿は他にもあった。
 皆、一様に押し黙って俯いているか、何もない壁を睨み付けている。
 夕梨もまた、固い長いすに腰を落としたまま、息を詰めていた。
 救急車が病院に到着してすぐに、若い医師に声をかけられた。
 優美の容態とこれから行う処置についての説明の後に書類を差し出される。
『こちらに保護者の同意を』
 のろのろとボールペンを取り上げてサインした夕梨に、医師は首を振った。
『いえ、お母さんですよね?お母さんのお名前を』
 無意識のうちに、夫の名前を書いていた。
 学校でも銀行でも、日常の生活の場で自分の名前を名乗ることなどなかったのだ。
 家ででも、夕梨の名前は忘れ去られていた。
 カイルが現れるまでは。
 そうだ、夫に連絡しなくては。
 夕梨は力無く立ち上がった。
 もう帰宅しているだろうか。
 まだ会社かも知れない。
 人気のないロビーの片隅に見つけた公衆電話の受話器を取り上げる。
 夫の携帯電話の番号を思い出そうとして、思い出せない。
 いつも用がある時には、短縮に覚え込ませたボタン一つで良かった。
 受話器を握りしめたまま、夕梨は逡巡した。
 家にはカイルがいる。
 彼に連絡してもらうしかない。
 何を伝えて貰えばいいのだろう。
 カイルとベッドにいたところに優美が帰ってきて、それで飛び出した彼女がトラックに跳ねられた?
 娘を猫かわいがりにしていた夫を思い出す。
 二人で出かければ、いつも中学生には分不相応な品をねだられて買い与えていた。
 彼は怒るだろう。
 最愛の娘にこんな仕打ちをした夕梨のことを。
 母親としての自覚がないと。
「はい?」
 受話器が取り上げられる。
「カイル・・?」
「ああ・・・」
 露骨にほっとした声でカイルは答えると、すぐそばで声が聞こえた。
 夫だ。帰ってきている。
「ママ、優美はどうした?」
 受話器を奪い取ったのだろう、勢い込んで話しかけられる。
「今、病院なの・・・」
 言っている端から涙がこぼれた。
「病院?なんで?優美はどうなったんだ?」
 しゃくり上げながら、夕梨は病院の名を告げた。
 飛び出してトラックに跳ねられ、救急車で運び込まれたこと、いまはまだ手術中であることを、泣きながらどうにか伝える。
「そうか・・・すぐにそっちに行く」
 夫の声は落ち着いていた。それだけで不安が少し和らげられる気がする。
「それよりも・・・」
 続く言葉に夕梨は身体を強張らせた。
 どうして、優美はそんな場所に行ったんだ?
 なぜ家を飛び出したんだ?
 やって来る質問に身構えて身体を硬くした。
「おまえは大丈夫なのか?」
 夫の言葉は意外だった。
 まさか気遣われるなどとは思わなかった。
「大・・・丈夫・・・」
「一人で不安だっただろう?ごめんな、すぐに行くから」
 ずるずると床に崩れながら、夕梨は何度も頷いた。
 そうだ、夫はそういう人間だった。
 いつも気遣いのできる優しい人だった。
 なのに、責められることに脅えていた。
 後ろめたかったからだ。彼の優しさを裏切って、罪を犯していたからだ。
「大丈夫?」
 弾かれたように手の中の受話器を見た。
 いつの間にか、相手はかわっていた。
「大丈夫、夕梨?」
 カイルの呼びかけに、もう夫はそこにはいないのだと知る。
 おそらく、病院に向かうために準備をしているのだろう。
「優美ちゃん、手術はどれくらい・・・」
「分からないわ」
 いらだちが支配する。後ろめたさがカイルに対して冷淡な態度を取らせる。
 彼を責めることで自分の罪悪感を減らそうというのか。
 最低だ。
 最低な自分のせいで、優美も夫も、カイルまでも傷つけている。
 沈黙した受話器の向こうに、黙り込む姿を想像する。
 カイルはまだ自分の半分しか生きていない少年なのに、感情をぶつけてしまう。
「・・・ごめん」
 謝罪の言葉が、夕梨の中に重い音をたてて落ちた。
「謝らないで」
 ふたたび涙が溢れた。
 壊して欲しいと望んだのは自分だった。
 その結果がこれなのだから。
 まだなにか言いたそうなカイルを振り切るように受話器を戻す。
 優美の所に戻らなくては。
 けれど、立ち上がれなかった


 非常灯の緑色のランプが冷たくロビーを照らしている。
 夕梨は床に座り込んだまま、声をあげて泣いた。

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