陽の翳る午後 第九話
カイルは切れた受話器を眺める。
無機質な音が、規則正しい間隔で繰り返される。
夕梨は泣いていた。
泣かせたのは自分だ。
どうしてこんなことになったのだろう。
ようやく、手にしたと思ったのに。
いつのころからか、胸の中に笑顔だけが棲みついていた。
カイルはポケットから小さな写真を引きだす。
優美を腕に抱いて笑う夕梨。
幼い身体にしっかりと巻き付けられた腕や、柔らかくカールする髪に押し当てられた頬には、娘に対する愛情が溢れている。
目を閉じても思い浮かぶほどに焼き付けた表情だ。
初めてであった時、柔らかな笑顔を浮かべた。
『お姉ちゃんはお兄ちゃんのことが好きだからよ』
白いベールに縁取られた顔は、幸せに輝いていた。
夕梨はカイルの知らないところで他の男と出会い、他の男と時間を重ねた。
彼女の笑顔には、なにひとつカイルに関わることはなかった。
いつのころから夢見たのだろう。
大好きよ、カイル。
見上げる瞳や、上気した頬にかすかに揺れる睫毛。
だからそれはそんな夕梨の姿を何度も繰り返し眺めているうちに、夢の中で交わした会話なのかも知れない。
抱きしめる肩の細さや、腕のしなやかさすらその場で触れたように思い浮かべられたのに。
抱き合えば、あまりの既視感に驚いた。
ふたりがこうなったのは必然だとすら思えた。
「好きだよ、夕梨」
ひとり、壁に凭れて声に出してみる。
拒まなかった。
けれど、答えてももらえなかった。
むきになればやんわりといさめられる。
だって、分かるでしょう?
向けられた背中が諭すように語る。
これはほんの気まぐれな時間。
ウンザリするほど同じに繰り返される日常に飽いた女がほんの好奇心から手を出した遊び。
それは嘘だと叫びたくなる。
細い肩が揺れて、押し殺した想いが透かすように見えてくる。
夕梨もまたカイルを心の底から求めているのだと、重ねる身体の熱さが伝える。
奪い取って欲しいと声がする。だから奪い取ろうとした。
型どおりの日常と、迷い込んでしまった誤りの人生から。
切れてしまった受話器を眺める。
どうしてこうなったのだろう?
慌ただしく飛び出していった叔父は、大丈夫だからと言い残した。
彼はなにが起こったのか理解しているのだろうか。
あたりまえのように自分のものにしていた女が、別の男を選ぼうとしていたことを。
選ぶ?
夕梨は自分を選んだのだろうか。
選びはしなかった。ただ、迷いながら身を預けただけだ。
カイルの想いに流されるように、なんの決意も無しに。
夕梨なら選べたはずなのに。あの時のように。
そこまで考えてカイルは眉を寄せる。
あの時とは、いつだろう。
自分は以前にも夕梨に選択を迫った時があったのだろうか。
ありったけの記憶を反芻してもかけらすら思い浮かばない。
いつもこうだ。
夕梨のことになると、判然としない記憶の断片が浮かんでは消える。
たぐり寄せようとすれば遠のく逃げ水のような断片だ。
まるで・・・
『生まれる前から好きだった』
口元がゆがむ。
思いに駆られるままに口にした言葉だった。
ただ、手の届くところにある身体を抱きしめたかった。
けれど、その言葉が真実であることも本能が告げる。
「前世の記憶?」
馬鹿なことを、とカイルは自嘲した。
ロマンチストの言葉で片づけるには、犠牲にするものが大きすぎる。
血の繋がった従姉妹の優美は、生死の境をさまよっている。
駆けつけた夫に、夕梨はなにを語るのだろう。
二人の犯した罪を?
そう、これは罪でしかない。恥知らずにも繰り広げられた痴態の数々。
誰もが二人を糾弾するだろう。
何不自由のない暮らしに満足せず、それを壊そうとした。
見まわせば、目にはいるのは掃除の行き届いた幸福な家庭の姿。
磨かれた絵皿や花瓶が飾られ、糊のきいたカバーの掛かったソファ、テーブルにはきちんと重ねられた雑誌。
ここにあることが自然のように、鼻歌混じりにリビングを横切る夕梨の姿。
飛んでくる礫はこの居心地の良い居間から夕梨を追い払うだろう。
写真の中で笑う夕梨が穏やかに暮らしていた場所から。
耳の奥に泣き崩れる夕梨の声が甦る。
追われるのなら、一緒に逃げようか。
二人きりで、責める者などいない場所へ。
その考えはカイルをしばし陶然とさせる。
けれど、どこへ?
カイルの差し出した手を、夕梨は取ってくれるのだろうか?
まだ将来すら約束されていない自分の手を。
伸ばした手が拒まれるだろうことは、分かっている。
「好きだよ、夕梨」
答えはいつもなかった。
ただ、静かな沈黙が返ってきた。
泣き出しそうな顔でカイルの瞳をのぞき込みながら、ゆっくりと髪を梳く。
焦燥感に、また荒々しく身体を組み敷く。
「好きだよ、夕梨」
それが答えられない理由かのように、唇を塞ぐ。
一度でいいから、答えて欲しい。
大好きよ、カイル。
こんどカイルのそばを離れる時は、どちらかが死ぬ時よ。
耳の奥に息づかいまでが甦る。
また、幻想だ。
カイルは写真を握りつぶすと緩慢に立ち上がり、受話器を戻した。
二人で寄り添えば何もかも上手く行くのだと思っていたのに。
そんなことはあり得ないはずなのに。
カウンターに置かれた電話帳を取り上げる。
動かない頭を叱咤して、ページをめくる。
祖父母に連絡をとらなければ。
叔父が言い残した言葉。
彼らにとっては、優美もまた、カイルと同じかわいい孫だ。
彼らが責めるのはおそらく夕梨なのだろう。
孫を誘惑し、孫の命を危険にさらした。
誰もが当事者の片方だけを糾弾する。
同じ罪を犯して、リスクだけを負わせた。
どうして、こうなったのだろう。
ふと、自分の手に目をとめる。
白くて、長い指。
綺麗な指ね、と夕梨は言った。
この手には、何一つ力がない。
好きな女を奪い去る力も、その女を守ってゆく力も。
まるで遠い闇の中のように、夕梨の泣き声がいつまでもこだましている。
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