陽の翳る午後 第十話



 どうして時間はこんなにゆっくりと過ぎるのだろう。
 夕梨は息を詰めたまま、手術室のランプを眺めた。
 今、あの扉の向こうで優美の小さな身体は何をされているのだろう。
 救急車の中ですがりつこうとして押しのけられ、ただ肩越しに血の気を失った顔を眺めることしかできなかった。
 青ざめた唇がかすかに動いた。
 ママ・・と言ったのだろうか?
 暗い街路で呼びかけられて立ち上がった優美の顔には今までに目にしたことのない表情が刻まれていた。
 産み落とした瞬間から、片時も頭を離れたことのない娘の顔のはずだった。
 嫌悪、だと思った。
 家族を裏切った母親に対しての。
 ほんの一時とはいえ、彼女を隅へと追いやった事に対しての。
 きつく組み合わせた指に顔を伏せる。
 大声で許しを乞いたかった。
 誰よりも大切に思っているのだと伝えたかった。
 今すぐにでも駆け寄りたい。
 けれど、ドアは閉ざされたままだ。
「おい、ママ!」
 肩を揺さぶられる。
 弾かれたように顔をあげると、夫の姿があった。
 ふたたび乾いたはずの涙があふれ出す。
「・・・優美は?」
 ドアに目を向けながら訊ねる夫に、ただ首を振ることしかできない。
 どさりと隣りに腰を下ろすと、夕梨の手に手が重ねられる。
「大丈夫だ、な?優美は日ごろから鍛えているから」
 がくがくと頭を振る。
 自分で言い聞かせるよりも、他から言われる方が安堵が増すのはなぜだろう。
「それにここの病院は外科では有名だし」
 重ねられた手のひらから暖かさが伝わる。
 ごそごそとポケットを探ると、夫はハンカチを差し出した。
 それを掴むと、夕梨は目元をぬぐった。
 喉の奥で謝罪の言葉がからむ。
 声が出ないままに、息継ぎに肩を上下させる。

 張りつめた時を破るように慌ただしい足音が近づく。
 目を上げると、看護婦に先導されるように初老の男が立っていた。
「氷室さんですか?」
「はい?」
 いぶかしげに立ち上がった夫に、男は胸ポケットから取りだした黒革の手帳を丁寧に開いて堅苦しい表情で写っている写真を見せた。
「お嬢さんの事故の様子をお聞きしたいのですが」
「それなら・・・」
 ちらりと視線が投げられる。
「妻がそばにいたのですが・・・」
「よろしいですか?」
 警察官の言葉に夕梨はハンカチを握りしめて立ち上がった。前に出ようとした夫の腕に手を載せると、首を振ってみせる。
「ここに残って、ね?」
 視線を向けると、相変わらず手術中のランプは点灯したままだった。
「大丈夫か?」
 頷くと、脇をすり抜けて歩き出す。
 彼がいたわりのまなざしが枷のように絡みつく。
 頭に砂がつまっているような気がした。疲労が身体を重くする。
 この警察官に洗いざらい喋れば肩の荷が下りるのだろうか。
「手術はまだ終わらんのですか?」
 いかにも気の毒そうに、初老の警察官は言った。
 看護婦が案内したのは小さなカウンセリングルームだった。観葉植物が飾られた室内は淡いクリーム色で装飾されている。
 奥の両肘がけの椅子を夕梨に進めると、警察官は入り口側のスツールに腰を下ろした。
 先ほどの手帳を開くと、デスクに覆いかぶさるように身体を曲げた。
「ええと、事故の時間ですが」
 あらかじめ調べてあったのだろう事を淡々と述べる。
 運転手からの供述はもうとれたのだろうか。
 夕梨の目の前に、あの時の光景がふたたび繰り広げられる。
 暗い道、うなだれていた優美の姿。
 夕梨の呼びかけに、弾かれたように立ち上がる。
「お嬢さんが突然飛び出してきた、ということですが」
「そうです」
 警察官の肩越しに観葉植物をぼんやりと見ながら夕梨は言った。
「私を見ると飛び出して道を渡ろうとしたんです」
 あのときの優美の顔。
「はぁ・・・喧嘩ですか?」
 警察官はぼそぼそと繰り返しながら、手帳に鉛筆を走らせる。
 夕梨はわずかに首をかしげた。まるで母子のあいだの日常的な諍いかのような表現にひっかかった。
 喧嘩、ではない。
「怒ってたんです、あの子」
 そして軽蔑していた。
「私が・・・他の男性と・・・」
 階段を登る優美の姿。その時、自分は何をしていたのだろう。
 観葉植物の輪郭が定かでない焦点にぼやける。
「浮気してたんです。それを見て、あの子は飛び出して」
 急な告白に初老の警察官は手帳から顔をあげ困ったように目をしばたかせた。
「浮気相手は、私の甥なんです」
 言葉にしてしまえばこんなにも通俗的なことだったのかと、夕梨は思う。
 まるで興味本位にかき立てる週刊誌か三面記事のようだ。
 あの胸が引き裂かれるような焦燥と渇望が、こんなにも安っぽい言葉で片付くなんて。
「私のせいです、すみません」
 頭を下げながら、夕梨は胸の奥で何かが壊れていくのを感じた。
 大切に、秘めておきたかったもの。これは、いつか気づいた恋なのだろうか。
「・・・いや、そう言われてもね」
 頭を掻きながら警察官は言った。
「ウチはそういうの調べるんじゃないから」
 夕梨はハンカチを握る手に力を込める。氷室に渡されたものだった。
 この警察官相手では、懺悔をしたことにもならないのだ。
 それよりも、まだ自分はすべてを話せば罪が軽くなると期待していたのだろうか。
 また、逃げようとしている。
 俯いたままの夕梨を宥めるように、警察官は言った。
「これは事故なんです。現場検証はお嬢さんが回復されてから、ということで」
「回復、しますか?」
 縋る夕梨の視線に、ちょうど父親の年ぐらいの警察官は人の良い笑顔を浮かべた。
「もちろんしますよ、大丈夫」


 一人で戻った夕梨を、氷室は立ち上がって迎えた。
 どうだった、と目線で訊ねる。
 夕梨は警察官の言葉を頭の中で繰り返しながら、氷室のそばに腰を下ろした。
 お嬢さんにとっては、ご両親がそろっているのが一番ですから。
 黙って夫の手を掴む。
 夫もまた、すぐに隣りに腰を下ろした。
 同じように廊下で待ちわびていた他の家族は姿を消していた。
 その患者の結果がどうだったのか、氷室はなにも言わなかった。
 手をつないだまま、手術室のドアを眺める。
 優美の手術が終われば、すべてを話そう。
 すべてを話して、夫の裁可を受けよう。
 許して貰えないかも知れない。
 それでも、優美のそばにいたい。
 優美を失うことを思えば、他のどんなことにも耐えられる気がした。
 夕梨の耳に夫の言葉がすべり込む。
「なあ、ママ・・・優美はどうして・・・」
 肩が揺れた。
 とうとう、この瞬間が訪れたのだ。
 夕梨はきつくまぶたを閉じると、一つ息を吐いた。
 逃げだせない。逃げる訳にはいかない。
 口を開こうとした瞬間、夫が立ち上がっていた。
 ドアの開く機械音に、夕梨も慌てて立ち上がる。
 薄緑の手術衣を着た先刻の若い医師が、足早に近寄ってくるところだった。
「あの」
 せいて話しかける氷室に、口元をゆるめる。
「大丈夫ですよ、お父さん」
 微笑みは夕梨にも向けられた。
「お母さんも安心して下さい」
 膝から力が抜けそうだった。夕梨の身体をいつの間にか支えたのは氷室の腕だった。
「詳しい説明をしますから・・・ああ、お母さんは」
 医師が振り向くと、ちょうどストレッチャーに乗せられた優美が運び出されるところだった。
 きびきびした動きの看護婦が立ち止まると、夕梨に近寄る。
「お母さんですね、ちょっと・・・」
 話したいことがある、と目線で知らせられる。夕梨は不安げに夫を振り返る。
 医師の説明に相槌を打ちながら氷室は眠る優美の上に身をかがめていた。


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