河の流れに
夜明け前に、女たちを集めるようにと命が下された。
夜をついての行軍に、かがり火の傍であるいは粗末な天幕の内で眠り込んでいた女たちは疲れの残る表情で不安げに身を寄せ合った。
長身の彼はマントを翻し、戦車の上に立ち上がると告げる。
「女たちを置いて行く」
兵士の中から不満のうめきが聞こえる。故郷を離れて10年近く。
すでに残してきた家族よりは、戦利品として与えられた女奴隷に親しみを感じている者も少なくない。
「これからここは戦場になる。足手まといはいらぬ。馬と食料を与えるからどこへでも立ち去るがいい」
女の間からすすり泣きが上がる。それは、故郷に戻れるかも知れない喜びなのか、見知らぬ土地で置き去りにされる嘆きなのか。
彼は用向きを告げるとすばやく戦車を飛び降り、幕営に向かった。
すすり泣く女たちの間で、めざとく立ち去る彼を見つけたユーリは人の輪を抜け出した。
「待って」
彼の背中は立ち止まる気配も見せない。
「ねえ、待ってよ、ペルディカス!」
全軍の将の名を、一介の女奴隷が呼び捨てることなどあり得ない話だ。
だが、ユーリにはそれが許されていた。すでに将のお気に入りの奴隷、いや毛色の変わった側室の一人としてすでに認められていたからか。
名を呼ばれて初めて彼は立ち止まった。わずかに射し始めた暁光に金の髪がきらめいている。
「お前も、さっさと行くがいい」
「どうして?」
駆け寄り彼のマントをつかむ。
「戦場になるのなら、馬は必要でしょう? 女たちに与えるなんて・・・」
「馬には乗れないのか?」
青い瞳に意外にもからかいの色を見て、ユーリは胸を反らした。
「マラカンダは遊牧の民の街よ? 子どもは歩くより早く馬に乗るわ」
「では、心配はいらぬな」
それだけ言うと、ペルディカスは背を向けた。その後姿にまた拒絶を感じ取り、ユーリは追いすがった。
「マケドニアに行くんじゃないの?」
「勝てば、な」
ユーリにはどうしても理解できないでいた。
「どうして、戦うの? だって、仲間だったんでしょう?」
故郷のマラカンダが焼け落ちた日を覚えている。
いつ果てるともなく攻めてきた敵は、何色もの軍旗を翻していた。あれがアレクサンダーの猛将たちなのだと、脅える古老が言った。
「とても仲が良かったのに・・・」
捕らえられ広場に集められ時、周囲を睥睨した大王の姿を思えている。
『お前たち、好きな女を選ぶがいい』
生まれた街を焼き払った大王は、憎らしいほど快活な声で言った。
『マラカンダの女は美女揃いだ。勇将にこそふさわしい』
大王の将軍たちはみな見上げるような上背とがっしりした肩と、金の髪を持っていた。
『オレは、あの亜麻色の髪だ』
豪放な声が叫ぶ。大股に近づいたその男は、一人の女の腕をつかんだ。悲鳴が上がる。
男たちの間で笑い声とヤジが飛んだ。
『カサンドロス、相変わらず女の扱いが下手だな』
『うるさい、お前みたいに口先だけで口説いて回るのとは違うんだ』
また、笑い声が上がった。
震える友の身体に腕をまわしながら、ユーリは肩を小突きあい冗談を言い合う男たちに目を奪われた。
敵はこんな風に強い絆で結ばれた強大な軍隊だったのだ。
一所に留まらず流れていく遊牧の民を血を引く自分たちに勝てるはずがない、そう思った。
「カサンドロスは、なぜあなたを殺そうとするの?」
「私が陛下の忠実な部下だからだ」
陛下、と言うときペルディカスの表情はかすかに痛みを浮かべる。
彼の奉じる大王の後継者は、まだ生まれたての赤子に過ぎない。先の大王がわずか30代で薨去した時、生まれてさえいなかった子ども。
広大な帝国を母の胎内にいるときに支配することを義務づけられた子ども。
それを快く思わない者も当然多い。本来なら結束して王座を守るための将たちは後継者を名乗って争い始めた。
「あなたは、勝てないと思ってる?」
大義は摂政を務めるペルディカスにあるはずだった。粗野な振る舞いの多いカサンドロスが、よく彼にたしなめられて頭を掻いていたのを思い出す。
「勝てない」
ペルディカスの声は静かだった。
「このアレクサンダーが残した帝国を負うには、あの陛下は幼すぎる」
「じゃあ」
どうして、無理にその子を守ろうとするの。他の人たちと同じように立ち回ろうとしないの。
ユーリは言葉を飲み込む。
アレクサンダー、と、彼は大王を呼んだ。同じ学舎で学んだ幼なじみだったという。
成長して、彼らは主従の関係になったけれど、友情は変わらず存在し続けたのだ。
だから、見捨てられない。志半ばで倒れた友の嘆きを。
「どうしても、勝てないの?」
マントをつかんだまま、俯く。敵は、一人ではない。大義を手にするペルディカスに対抗するように、かつてアレクサンダーの元で手を取り合った武将たちがふたたび手を結んだ。
「ユーリ」
ふと、明るい声でペルディカスは訊ねた。
「おまえの恋人は見つかったのか?」
「え?」
慌てて顔をあげる。蒼い瞳にぶつかった。まだ見たことがない海と同じ色なのだと聞く。
マケドニアに行き、海を見ようと彼は言ったのだ。
「恋人って・・・」
「探していたのだろう? 兵たちに聞き回って」
捕らえられ将軍の持ち物になり、いくばくかの自由が許されるようになってから、ユーリが試みたのは『彼』の消息を訊ねることだった。
わずかばかりもたらされた髪だけでは、まだその死を信じられない。
「・・・カイルは恋人じゃないよ」
友達のセルトの婚約者だった。あの時、広場で引き離されたセルトのために、彼の最期を知ろうと思っていたのだ。
「そうか? そういう風には思えないがな・・・まあ、いい」
ペルディカスの指が髪にかかる。梳き上げられる感触に瞳を閉じる。
彼とて、戦で無理矢理手に入れた女に心までは望まないのだろう。
ユーリもまた、戦で敗れた国の女として選択肢など無かった。
ただ、わずかばかり運が良かった。与えられたのが、無体なことを望まない男だっただけではなく、ユーリの気持ちを尊重しようとしてくれた。だから、こうして彼の身を案じる。
カイルの髪も同じ金色だった。だから、心を許そうと思ったのか。
「おまえに海を見せるつもりだったがな」
嘆息のように、声が耳にかかる。
「勝てば、見られるよ」
生まれた国は破れてしまった。
あの荒涼と広がる砂のどこかで、カイルは眠っているのだろうか。あの琥珀の瞳を永久に閉ざして。
言葉を交わしたのはほんの一時なのに、彼の姿の何もかもが記憶に焼き付いている。
あの瞳で、ユーリとは違う女を見つめ、あの声でユーリとは違う女にささやいた。
そう思えば、いまだに胸の奥でちりちりとくすぶるものがある。
ふいに腕を引かれた。
「おいで」
ペルディカスは言うと、野営地から離れた場所に向かって歩き出した。
「どこに行くの?」
小走りに歩みを合わせながら、ユーリは訊ねる。
出立はまだだとは言え、将が軍営を離れてはいけないはずだった。
「海の代わりに見せたいものがある」
そう言うと、ペルディカスは歩き続ける。すれ違う兵たちが頭を下げる。
「おまえの国には大きな河が流れていたな」
「ザラフシャン?」
砂漠の中に緑をもたらす河。言葉を口にすればユーリの胸は疼いた。
一生、あのほとりで暮らすのだと信じていた。
退屈で平和な機を織る日々。
「そうだ、その河はどんな色だ?」
「雪解けには黒くて・・・」
言いかけたユーリは、藪を抜けた場所に広がる光景に息を飲んだ。
目の前には故郷にも劣らぬ大河が流れている。
その河の水は。
「赤い河だ」
ペルディカスの声が聞こえる。
「土の色がとけ込んで赤くなる。初めて見るだろう?」
「初めて?」
そう、生まれて始めてみる水の色。こんな河の色が存在するなんて知らなかった。
けれど、この懐かしさは何だろう。
そうだ、ここだ。
唐突に思った。
ここに辿り着いて、ここで死にたいと願ったのだ。愛しい男の腕の中で。
愛しい人は逝ってしまったけれど。
「ユーリ?」
「そう、初めて・・・」
頬をとめどなく流れる落ちる涙に気づかぬまま、ユーリは赤い河を見つめ続けた。
おわり
(the last time めぐり逢えたら 第二話)
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