雨は降る



「また、ご覧になっている」
 かけられた声に振り返る。長い裾をつまむと、その人は城壁の上に軽やかに立った。
「そんなにお気になさるのなら、掘り返せばよろしいのに」
「姫・・・」
 言いかけてすでに彼女が自分の妻であることを思い出す。
「あれは、あそこにあるからいいのですよ」
 言うと手を差し伸べて降りようと促す。
「私も見てみたいわ」
 重なる森に視線を投げて、妻はうっとりと呟いた。
「あなたのご先祖が築かれたという寺院を」
「昔の話です」
 カイルは言うと、妻の腰に手を回して身体を持ち上げた。明るい笑い声がはじける。
「いやだわ、陛下」
「こんな動きにくい格好で城壁に登るものではありませんよ。裾を踏んだらどうなさるのです」
 石段を下りる。妻はほっそりとした体つきをしていて、腕にかかる重みもごくわずかだ。
 それでも、あの娘はもっと軽かった。臨月の大きな腹を抱えていても、その腕や脚は枯れ木のように細かった。
 触れあったのはほんの一時だったけど。
「随分進みましたのね」
 妻の言葉に立ち止まる。見下ろす城壁内はあちこちで槌音が響いていて、壮麗な宮殿がその姿を現しつつある。
 ジャワから逃れて3年。妻の父が支配する王国にたどり着き、一介の兵から這い上がり将として頭角を現した。
 やがて援軍を借り、この国に戻り僭称者を追い払うと、ようやく王座を取り戻した。
 それが長かったのか、短かったのかは分からない。
「民もようやく落ち着いてきたと聞きます」
 深窓の育ちにもかかわらず、妻は様々なことに心を砕く術を知っている。
 だから、選んだのだ。
 長い間、望んでいた。傍らに立つ器量を持つ女。
「長く戦乱が続いたから、これでようやく平和に暮らせると喜んでいますわ」
 抱え上げられたまま、妻の腕が見下ろす建物を示した。
「寺院を建てましょうね、一日も早く皆が安らげるように」
「私は・・・」
 カイルはようやく口を開いた。
「私は誰も脅えたり餓えたりすることのない国を作りたいのだ」
 差し出されたパンにむしゃぶりついていた姿。
「貧しさから娘たちが売られたりするようなことのない豊かな国を」
 振り下ろす鞭に黙って耐えていた姿。
 あの少女の名前はユーリと言った。年よりもずっと幼く見える痩せた身体。
『あんた、呼んでくれるの?』
 一瞬頬にさした赤味。
 過ごしたのはわずかに一日。
『怖いよ・・・助けて』
 しがみついた少女に、なにもしてやれなかった。
「お手伝いしますわ」
 腕の中の高貴な女が言う。
「あなたのお作りになる国を、私も作りたいと思います」
 毅然とした言葉が、優しげな唇から流れ出す。
「ありがとう」
 きっとこんな女を捜していたのだ。
 ともに歩んでいけるような。
「あら」
 妻が視線を空中に投げた。
「雨・・・」
「急ごう」
 歩き始めたカイルの胸にすがりつくようにして妻は呟いた。
「まるで恋人を見ていらっしゃるようでしたわ」
「・・・?」
「あなたがあの森をご覧になるとき」
 妻はうっすらと微笑んだ。
「いいえ、ボロブドゥールを想っていらっしゃるときかしら」
「ボロブドゥールを? ・・・あれはただの遺跡です」
「遺跡というものは思い出が眠る場所ですわ」
 妻は喉の奥でくぐもった笑い声をあげると、まぶたを閉じた。
 カイルは残る数段を駆け下りると、もう一度城壁を振り返った。
 灰色の空が重たく広がっている。雨の粒がひっきりなしに落ちてくる。
 雨は穏やかにあたりを包みはじめる。
 森の上にも同じように降るのだろう。
 あの森に抱かれて、寺院は眠る。そして、あの少女も。
 あの哀れで愛しい少女も。
「ただの遺跡ですよ」
 カイルは小さく繰り返した。


               おわり
おわり おわり

      

(the last time めぐり逢えたら 第三話

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