「めぐり逢えたら」 第三話

                    
 byしぎりあ

AD9世紀 ボロブドゥール


 軟らかい地盤が足の下で崩れた。
 バランスを失ってついた膝さえ、ずぶずぶと沈みこんでゆく。
 すでに道と呼ぶよりは濁流と呼んだ方がふさわしい中に立ちすくみながら、私は顔にかかる泥水を拭った。
 ひっきりなしに太い水の固まりを投げつける空は、光を失っている。
 さらわれまいと歯を食いしばりながら、ふと気にかかる。

 あの、木の根本は泥水にえぐれてはいないか。
 獣に掘り返されることがないように、深く穿ったはずだったが。

           ***

 街道から外れたその村は寂れていた。
 かつて濃い森を抜けた場所にあった都のおかげで繁栄のおこぼれにありついていた村は、いまでは道のない密林に踏み込もうという酔狂な者がたまに通り過ぎるだけの場所だ。
 すべてが傾いた低い屋根の家々がまばらに並んでいる。
 家畜と娼婦を商う小屋の朽ちかけた羽目板の脇で、あの少女を見つけた。
 口汚く罵りながら振り下ろされる鞭をとどめる気になったのは、少女が声をあげなかったからだ。
 許しを乞う訳でもなく、懇願するのでもなく、大きく膨らんだ腹をかばうように少女は地面の上で丸くなっていた。 
 胸が悪くなるような光景だった。
 少女の黒髪が、鞭が振り下ろされるたびに揺れた。
 気がつけば、懐にあったものを、痩せこけた男の前に投げ遣っていた。
 男がこびへつらい、少女がのろのろと顔を上げた。
 土ぼこりにまみれた顔は青ざめていて、唇の端に血がこびりついていた。
「今夜はこの女をご所望で?」
「ふざけるな」
 私は男をねめつける。
 男の手のひらに握りしめられているのは小さいが金無垢の仏像だった。
「この女まるごと買い受けても、まだ代価には多かろう」
 男はなにごとか口の中でつぶやくと、二三歩後ずさった。
 私はあごをしゃくった。
 男がおかしな笑いを浮かべながら頭を下げ、くるりと背を向けて走り去った。
 私が取引を引っ込める気になっては不利だと悟ったのだろう。
 不相応な値を付けられた少女を、私は見下ろした。
 少女は大きな腹を突きだしたままぼんやりと、去って行く主人を見送っている。
 見ればまだ幼い少女で、腕も脚も驚くほどに細かった。 
 つまらないものに関わってしまった。
 舌打ちをすると、背を向ける。
 先を急がなくてはならない理由があった。
 
 苦しげな息づかいが聞こえた。
 振り返ると、少女が小走りに従っていた。
「なぜついてくる?」
 すでに道は失われ、あたりは濃い緑の植物で覆われている。
 曲がりくねった木の根をまたぐと、少女は首をかしげた。
「だって、あたしを買ったんでしょう?」
 その声はか細かった。褪せた色の布から突き出た手足は、痩せこけている。
 あの娼館の主はろくに食料を与えなかったに違いない。
 不釣り合いに突きだした腹に少女は手を添えた。
 まるで大きな荷物を抱えているようだった。
「買ったつもりはない」
「・・・あれは、払いすぎだと思う」
 私の言葉を気にする風もなく少女は、眉を寄せた。
「あたし、そんなに元手かかってないよ。食べ物だってそんなに喰わせてもらってなかった。結構はやくから働いていたし」
 はすっぱな口調は逆に少女の幼さを際だたせた。
 息を切らせているためか、頬に血の気が戻っていた。
 切れた唇に乾いた血がこびりついている。
 年の頃は、12,3才だろうか?自然に女として花開いたのではなく、無理にこじ開けられたような痛々しさが細いうなじにまとわりついていた。
「客だってもう10才で取らされてさ」
 こともなげに言うと、大儀そうに腰を下ろした。
「あいつが食べて来れたのもあたしのおかげ」
 そうして、笑った。
 不意に疲労を感じて、私はこぶだらけの木の根本に座り込んだ。
「では、おまえがいなくなると困るな」
「困んないよお、あんなお宝手に入れて・・・」
 胸元を引いて風を入れながら、薄く笑った。
 覗く胸元は、ひどく薄っぺらかった。
 この小娘が、毎晩客を取っていたのだ。
「あんた、すごいよね、あんなの・・・本物の金?」
 指先で、記憶に残る形作ってみせる。
「お金持ちなんだね?」
「あれきりだ・・・もう他にはない」
 あの金の仏像を私に手渡した、老いた腕を思い出す。
「それをあたしなんかに遣ったの?」
「・・・いずれ捨てるつもりだった」
 妄執の染みついた伝来の品。
 
 老人は、あの時なにを言ったのだろう。
 必ずや、再興を、と。
 幼い頃から聞かされ続けた過去の栄華。

「捨てる・・・って・・・もったいない」
 少女は頬杖をつくと、私の顔を見上げた。
 お金持ちの考えることは分からない、とつぶやく。
「捨てたようなものかもね、でも、少しは取り返せるかな?」
 張りだした腹に視線を落としながら、一人でうなずく。
「これ、女の子だったらねえ、高く売れるよ」
 事も無げに言われて、また不快になる。
「売る、とは自分の子のことか?」
 この少女は幼いながら、自分の体を売り生まれてくる我が子までを売る、立派な娼婦なのだ。
 先祖伝来の品と引き替えに手に入れたのが、このような下層の女なのか。
 私は、確かに己の上に怨念を焼き付けようとした老人達に復讐しているのかもしれない。
「お前達は、自分の子を平気で売買できるのだな」
「だって、仕方ないでしょ?」
 悪びれもせずに少女は言った。
「あたしだってそうやって売られてたんだよ。買い手がなかったら今頃は飢え死にしてたしさ。もっとも、ここんとこ客が取れなくて、食べ物もらってないけど」
 私は黙ってパンを取りだした。
 少女はひったくるようにしてパンを掴んだ。
 かぶりつこうとして、私を上目で見た。
「腹の大きい女を抱きたい男はいないんだよ。あんた・・・あたしと寝る?」
「いいから、黙って食べろ」
 少女が口にパンを押し込んでいるのを見ながら、私は置きざりにしてきた老人達を思った。
 
 老人達は過去の栄光に縋って生きていた。
 彼らが呼吸していたのは、過ぎ去った権力の思い出であり、彼らの血管を流れていたのは、錆びついたプライドだった。
 栄華を極めた象徴が密林の奥に眠っているのだと、なんど繰り返されたことだろう。
 権力を誇示し、繁栄を盤石のものにするための願いを込めて築かれた聖所。
 王国に敵が迫ったときに、自らの手で眠りにつかせた場所。
 もう一度、あの場所にたどりつき、ふたたび王国を取り戻すのだと、老人はしわぶきながら繰り返した。
 古く澱んだ血が己の内にも流れているのだと、嫌悪感と共に思った。
 彼らはこれからを生きようとはしない。ただ過去に縋るだけ。
 生きている亡霊のようなものだ。

 つかえながら咀嚼を繰り返す少女を見る。
 目標や理想など無く、命を繋ぐために身を削り生に執着している姿だ。
「おまえ、名前はなんという?」
 少女がぽかんと口を開けた。
 両手でしっかりとパンを掴んだままだ。
「・・・名前?」
 連綿と続く古い血が流れている自分が、過去すら定かでない少女と密林の中で向き合っている。
 私は育ててくれた老人達を捨て、少女はこれから生まれる我が子を捨てようとしている。
 私はこの巡り合わせに苦笑した。
「そうだ、名前だ」
 少女は黒い瞳をいっぱいに見開いた。夜の闇をたたえたような瞳だった。
 闇の奥で、星のようにかすかなきらめきが揺らいだ。
 このような境遇にある娘が、澄んだ瞳を持っていることが意外だった。
「・・・名前なんて・・・聞いてどうするの?」
「知らないと不便だろう・・・名前がないのか?」
 少女を打擲していた男が、この少女になんと呼びかけていたのか。
 口汚いののしりの言葉の中に、名はなかったような気がする。
「・・・・あるけど。だれも呼ばないから」
 そう言って、少女は視線を地面に落とした。
 無意識に、手のひらが突き出た腹を撫でた。
 驚いたことに、少女ははにかんでいるようだった。
「あんた、呼んでくれるの?」
「名前は呼ぶためにあるものだ」
 少女の声は、娼婦らしくなく消え入りそうだった。
「ユーリ・・・」
 まるでとんでもなく恥ずかしい事を口にしたように、ユーリの頬は赤くなった。
「ユーリか」
 なにかの花の名前だったか。この名をこの少女に与えたのは誰だろう。
 目も開かない赤子を売り払った親なのか。
 やがては男を取らせるために買い取った娼館の主人なのか。
「私は、カイルだ」
 私自身も名前など呼ばれることはあまりなかったのだと、思い出す。
 老人に従う老いた廷臣達は、私を殿下と呼んだ。
 王国を持たない王子だ。
「・・・カイル・・・さ、ま?」
「さま、は、いらない」
 言葉に混じる不機嫌さを感じ取ったのか、少女の身体がびくりと揺れた。


 季節は雨期にさしかかっている。
 ねっとりと湿った木立をすり抜けながら私は歩を早める。
 なま暖かい風が通り抜けたかと思うと、次の瞬間には大粒の雨が降り出した。
 歩きやすいために選んだ低地はたちまちのうちに泥の川になった。
 足下をすくわれることにもなりかねない。
 幾重にも絡まり合う雑木の上に逃げる必要があった。
 森の中に潜む獣たちはとうに危険を察知して安全な場所に逃げ去っているだろう。
 ぐずぐずしていたのは、人間二人だけか。
「おい、ユーリ、上がるぞ」
 顔を拭いながら大声を張り上げる。
 密林の奥に身重の女を置き去りにするわけにはゆかない。
 私はしぶしぶユーリの同行を許していた。
 返事は水音に紛れてか、聞こえなかった。
 焦れて振り返ると、胸の高さまで泥水に浸りながら、ユーリが苦しそうに身体を折るのが見えた。
「どうした?」
 声は届かない。
 水を蹴立てて近づく前に、細い身体が水に沈んだ。
「ユーリ!?」
 かろうじて水面に浮かぶ黒髪から見当をつけてぐったりとした身体を引き上げる。
 逆巻く濁流が血の色に染まっている。
「ユーリ!!」
 身体を揺さぶって呼びかける。
 白い頬が苦痛にゆがんだ。
 浅い息が繰り返される。膨らんだ腹が緊張を繰り返すのが分かった。
 生まれようとしている。
 咄嗟に身体を抱え上げると、木の根を掴み土手に駆け上がった。
 身重であってもなお、ユーリの身体は軽かった。
 大きな葉の重なり合う下に横たえる。
 濡れてはいたが、雨の直撃は避けられそうだった。
「ユーリ、聞こえるか?」
 返事を待たずに血に濡れた裾をまくり上げる。
 出産に立ち会ったことなどないのだ。
 どうすればいいのかも分からなかった。
 ユーリが軋むような悲鳴を上げた。
 手を掴むと、あらんかぎりの力で握り返してくる。
 青ざめた唇が動いた。
 慌てて顔を近づけると、激しい息づかいの下、かすれた声が助けを求めた。
「怖いよ・・助けて」
 背が何度も反り返り、脚が濡れた土の上を足掻いた。


 雷鳴がとどろく中で繰り返された悲鳴の後、一つの肉塊が現れた。
 手足のある、赤ん坊の形をしたもの。
 赤黒く、動かないそれを私はユーリのそばに横たえた。
 涙で腫れた顔で、ユーリは産み落とした赤ん坊を見下ろした。
「仕方がない、まだ月満ちていなかったのだろう」
 どれだけ出血したのだろう。あたりには生臭い死臭が満ちているような気がした。
 おさまりかけた雨足を見ながら、私は言う。
「少し、眠れ。椰子の実を捜してくる」
 とりあえずは休息と、栄養価の高い食べ物が必要なはずだった。
「戻ってきたら、埋めてやろう」
 ユーリがなにごとかつぶやいた。
 耳を近づけた私に、消え入りそうな声で願う。
「この子に、名前を付けて」
「分かった、考えておこう」
 いずれ、売り払う赤ん坊だったはずだ。
 名前など呼ぶ機会が訪れるとは思えなかった。
 けれど、私は望み通りにしてやろうと思った。
 きっと、ほかに何を望もうとも、選択することすら許されない生き方なのだろうから。

        ***

 密林の途切れ目に、小高い丘があった。
 丘は唐突に木々の間に盛り上がっている。
 老人達の繰り言のために、私の頭は土の下に隠されたものを細部まで描き出すことが出来た。
 古の殿上人達の紡いだ夢は、密林の奥で静かに呼吸していた。
 最後の誇り高い王族が息を引き取ったときに、私の頭にはここへ来ることが浮かんだ。
 自分の中に流れる血が、かつて築き上げ葬り去ったものを我が目で確かめ、そうして過去からの因果を断ち切るのだ。
 生まれたときから蜘蛛の糸のようにからみついていた呪詛を断ち切る。
 そのためには、ここに来る必要があったのだ。

        ***

 椰子の実を捜して密林を歩きまわって、私は丘を発見する。
 これで、新しい生を得ることが出来る、と思った。
 かげろうと亡霊の間に息を潜めて重ねてきた時のくびきから逃れるのだ。
 王族でも何者でもない、私自身の生き方を選び取るのだ。
 だから、あの幸薄い少女にも、別の人生を与えてやれないものかと。
 それは、これからにふさわしい生き方のような気がした。


 艶やかに葉を広げる木の根本で、ユーリは丸くなっていた。
 まるで、初めてあったときに腹をかばっていたように。
 その痩せた腕に、赤ん坊を抱えたまま。
「ユーリ」
 私は名前を呼ぶ。
 こんなあたりまえのことが、この娘を喜ばせたのだと思いながら。

        ***

 雨は止むことを知らないようだ。
 かって、偉大な聖所を覆い隠すために積み上げられた赤土が脆弱な地盤となって崩れ続ける。
 ここにあったのは、過去の王国。
 その末裔の私は、傾斜に取りすがりながら、泥にまみれて坂道を進もうとする。

 老人が、まだ若かった頃、朝日に染まるこの場所に立って誇らかに地上を見下ろしたのだと、なんども聞かされた。
 老人は恋人の肌を懐かしむようにその名を口にする。
 ボロブドゥール。
 永遠の場所。
 心の平安が訪れる場所。
 必ずや王国を取り戻し、密林の奥にひそむその場所を見つけだすのだと。

 足がすべり、伸ばした手が何かを掴んだ。
 固い感触が、確かに丘の下に眠るものを知らせる。

        ***

 私は木の根本に穴を穿ち、小さな身体を横たえる。
 赤ん坊を寄り添わせると、そっと訊ねる。
『名前は、どうしようか』
 答えなどないのに。

        ***

 押し寄せた濁流に、身体がさらわれる。
 土砂が覆いかぶさってくる。もがきながら流されて、不意に背中に衝撃が来る。
 一瞬息が止まり、痛みに耐えながら身体をよじってぶつかったものにしがみついた。
 流されまいと耐えながら、ユーリに訪れた孤独な最期を思った。
『怖いよ・・・助けて』
 あれは、あの娘がその儚い生でたった一度だけ助けを求めた言葉ではなかったのか。 


 どれくらいそうしていたのだろう。
 雨は唐突に止む。
 雨上がりに特有の熱気が地面から立ちのぼり始める。
 濁流は徐々に力を失い、やがては地表を弱々しく洗うだけになった。
 私は痛む身体を、むりやり引き起こして、しがみついていたものを見る。
 それは、石造りの仏塔だった。
 濁流に洗われて、隠されたはずの仏塔の一つが姿を見せていた。
 壁に穿たれた矩形の穴の奥には、微笑みをたたえた仏像が鎮座しているはずだ。
 私は夢中で顔を近づける。
 ほのかな明かりの中に、黒光りのする姿が見えた。

 ボロブドゥール。
 永遠の場所。
 心の平安が訪れる場所。

 ようやく、たどりついた。
 これから、私を生かすための場所。
 老人達の怨念とは無縁の、穏やかな笑みが静かに私に問いかける。

 お前は、なぜ、ここにいる?
 なにを望んで訊ねてきた?

 私の望みは。
 石の問いかけに、答える。

 過去を振り切るために訪れた。
 老人達の思いが行き着く場所を確かめたくて。

 永遠の場所。心の平安が訪れる場所。
 もし、その名がふさわしいのなら。
 ただ、あの少女の眠りが、安らかなものであれと。



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