「めぐり逢えたら」 第四話
by千代子さん
AD15世紀 グラナダ
「旦那さまが……!!」
執事が慌てて部屋に飛び込んできた。
「ご落命でございます」
泣き叫ぶ母を見つめながら、ユーリは恐れていたことが起きた、と思った。
街で起きた暴動を鎮圧に行くと言い出したのは、この街の市長を務める父の当然の成り行きだったのだけれど、今日ばかりはなぜか嫌な予感がした。
「医師も手の施しようがないと…」
執事の悲しげな声は耳へ入ったものの、右から左に通り抜け、ユーリは呆然と立ち尽くしていた。
いま、グラナダは荒れている。
毎日どこかで暴動が起こり、多くの市民が犠牲になっていた。
国が荒れればもちろん民も荒れるのだが、こんな状態はずっと続いており、ユーリも生まれたときからいつもどこかで同じような光景を見ていたのだけれど、それがこのところ一層熱を持ち始めたような気がする。
その矢先の、父の死だった。
「相手が悪うございました。旦那さまは最後まで必死に…」
付き添った側近の声が響く。
いま街で一番大きいと言われている一団の鎮圧へ行くと決めたのは、父自らだった。
右肩に蝶の痣のある、誰ともなく「黒蝶」と呼び始めた男が統率するという一団は勢力を増し、ほとんど毎日大きな暴動を起こしていた。
その男に深手を負わせながらも、父は倒れたのだった。
「すぐにお屋敷を出て避難されなければ」
すでに市民の半数以上が郊外に避難していたが、一家が腰をあげなかったのは父が市長の座についていたからである。
一目散に街を見捨てて避難することは出来ない、そう言っていた父の決断の末路がこれであった。
「町外れの空家を用意しております。ひとまずそこへ…」
執事の言葉にユーリは噛みつづけていた唇を放した。
とにかくしっかりしなければならない、そうしなければ、命を無くす、と思った。
そのためには泣くわけにはいかなかったのである。
「お嬢さま、そのようなことはわたしどもがいたしますのに」
流しで洗いものを片付けていたユーリに、家から従ってきたお手伝いの一人が慌てて手を出した。
「いいの、じっとしてるの性にあわないから」
この家に避難してきて、数日が経っていた。
父の訃報を聞いて以来すっかり臥せってしまった母に代わり、ユーリが家事などの一切を引き受けていた。
それでも執事やお手伝いの者などは数人ついてきてくれていたから、やろうと思えばユーリは一日中何もしなくてもよかったけれど、身体を動かしていないとどこまでも気持ちが沈んでしまいそうで、流しなどに立って野菜をきざんだり水仕事などしていると、いくらか気分も穏やかになっていく気がした。
今日も夕暮れに台所の小さな釜の前に立って、ぐつぐつと音を立てる鍋をぼんやり見つめていたときのこと、勝手口の扉が鳴ったような気がした。
風かしらん、と最初こそ大して気にとめなかったが、なにやらかすかなうめき声も聞こえてきて、ユーリはそっと扉を開けた。
日が落ち初めた夕暗がりのなかで、扉伝いの壁に誰かが蹲っているのが見えた。
恐る恐る近寄ってみると、歳のころは二十一、二だろうか、ユーリとさほど変わらないと見える青年がなにやら怪我を負っている様子で苦しげに息をしていた。
「もし、いかがなさいました?」
肩を揺さぶろうとして手を引っ込めたのは、どこを怪我しているのか判らなかったためである。
「歩けますか? とにかく中へ…」
肩を貸すと力なく腕を預けてきたけれど、かよわい女の身で大の男を運ぶなど一苦労、たった五、六歩の距離の台所についたとき、ユーリは汗びっしょりだった。
青年をとりあえず台所の絨毯の上に寝かせて、ユーリは居合わせたお手伝いの若い娘に薬箱を持って来て貰った。
そのあいだに血のついた服をめくると、腹に刺し傷の痕があった。
薬箱を受け取り、血が止まっているのを確かめるとそっと消毒液を塗る。
薬が染みたのか青年はうめき声を上げ、しばらく苦しげにしていたが、包帯を巻き終えるまで耐えていたと見え、お手伝いに手伝ってもらって奥の寝室に運び終えたときにはすっかり憔悴しきっていた。
「一体どこのお方でしょうか」
「…さあ…でも、きっとあの暴動で傷ついたのでしょうね。具合がよくなるまでここで休んでいてもらいましょう」
ユーリは上かけを肩まで引き上げてやりながら、どうぞ早くよくなるように、と祈らずにはいられなかった。
青年は三日ほどうつらうつらと時を過ごしたあとようやく目覚めて、ゆっくりとだが会話ができるようになった。
カイルと名乗った青年は、ユーリ一家と同じ街からここへ来たと言い、知り合いを訊ねていく途中で暴動に巻き込まれて怪我を負った、と話した。
気が付くと、ユーリは一日中カイルの世話をしていた。
薬が効いたのか薄皮をむくように回復していくのを見守ること、あまり多くを語らないカイルが思い出話などぽつりぽつりと話すのをベッドの側で耳を傾けているとき、歩行練習をしたいからを肩を貸してやりながら壁伝いに歩いた日など、ユーリはふっといまの情勢を忘れてとても伸びやかな気持ちでいることに気が付く。
相変わらず市内では奮闘が起きていたけど、父市長の亡き後は大きな暴動もなくなったらしく、小さな小競り合いがある程度だという。
そんな中で、この市街地はときどき喧嘩程度の騒ぎがあるだけで、至って平和だった。
一日、ユーリは近くの花畑へ花摘みに出かけ、そこで以前、稽古教室で一緒だったハディに会った。
彼女の家も暴動を避けるためにこちらへ越して来たといい、しばらく四方山話に花を咲かせたあと耳にしたのが、ユーリの父を死に追いやった「黒蝶」の話だった。
「どうやら大きな怪我をしたらしくて、どこかに潜伏しているらしいですよ」
「まぁ怖い…このあたりにいたらどうしましょう」
「なんでも右肩に蝶の痣があるようですわ」
「それは聞いたことがございますけど…」
ユーリは目を伏せた。
「そうですね、あなたさまのお父さまは……」
気まずい沈黙が流れたので、ユーリは無理に笑って、
「いいえ、お気になさらずに」
と言って別れたが、正直、父の命を奪った男が近くにいるとなると悔しくて仕方なかった。
できるならこの手で、と思うけれど、それはユーリには無理な相談だった。
ハディと別れ、気を静めようと思い、ユーリは足元にあった花を摘んだ。
鼻先に近づけると甘い香りがふわりと浮かんでくる。
これをたくさん摘んで生ければ、部屋の中が明るくなるだろうと考えて、籠の中を満たしていく。
もしかしたらその心のうちに、カイルが喜んでくれるだろうという期待がなかったとは言い切れただろうか。
帰り道、丘を越えて家が見え始めたとき、ちょうどカイルが玄関にいるのが見えた。
近づいてゆくと誰かと話をしているらしく、ユーリを確認すると話し相手は足早に去って行った。
「どちらの方?」
何の気なしに訊ねると、カイルは部屋に入りながら、
「流れの商人みたいだよ」
と軽く笑っていた。
「そう」
ユーリは花を入れた籠をカイルに見せ、
「きれいでしょ。いい匂いがするの」
とその鼻先に近寄せた。
カイルは黙って花を眺めていたかと思うと、一輪取り上げ、ユーリの髪に差し込んだ。
「きれいだよ」
突然のことに驚いたユーリだったけど、どういうわけか恥ずかしくてうつむいてしまい、顔を上げることが出来なかった。
やっとの思いで顔を上げようとしたユーリは、カイルの首にかかる首飾りに目がいった。
カイルもそれに気がついて、ユーリの目の高さに掲げると、首から外してユーリの手にのせた。
「きれい…」
精巧な作りのそれは、夕暮れ間近の西日を浴びて橙色に輝いている。
「…よかったらやるよ」
え?、と顔を上げる間もなく、カイルはユーリの首にそれをかけてくれた。
「よく似合ってるよ」
男性から物を貰うのは初めてだった。
照れくさい中にもさすがに嬉しく、ユーリは頬をばら色に染めて礼を言った。
その夜、ユーリは寝仕度をと思ってカイルの寝室に入った。
扉を開けたちょうどそのとき、カイルは着替え中だったらしく、上着を脱ぎかけていたところだった。
「ごめんなさい! わたし気が付かなくって…」
そう言って背を向けようとしたとき、視界にカイルの肩に黒いシミのようなものが見えた。
が、カイルは何とはなしに着替えを済ませるとユーリを振り返って、そっと額に唇を寄せた。
ユーリは予期せぬ事態にどうしたらいいのか判らなくなって、真っ赤になってしまい、それを見つめて可笑しそうにカイルは低く笑っている。
「ありがとう」
ユーリの肩を抱いたまま、カイルが言った。
「あなたのおかげで、命を救われた」
そんなことは、と言いたかったが、ユーリは顔を上げることが出来ずにうつむいたまま口の中でつぶやいただけだった。
「あなたを見ていると、なにかこう…心の中の悪い部分が浄化されていくような気がするよ」
ユーリはやっとの思いで顔を上げ、カイルの瞳を覗き込んだ。
琥珀色の透き通った瞳のどこに、そんな邪悪な要素が秘められているのだろうか、と思う。
「ありがとう」
カイルが低く、もう一度言った。
ユーリは何やら心のうちがもやもやとし始め、言いようもなく不安が広がっていった。
「あの…どこにも行かれませんよね」
声が震えるのは、どういうわけだろうか。
「あなたさえよければ、ずっとここにいていただきたいの…」
もっと別の言葉で言えばよかっただろうかと思ったが、腹の底から振り絞るように告げた一言が、このときユーリの気持ちを現したせめてもの言葉であった。
翌朝、なんとなく不安で充分に眠れなかった目を擦りながら、ユーリは窓を開けた。
日はまだ充分に昇っておらず、人の気配もしない庭に目をやると、なにかがごそごそと動いているのが判った。
猫だろうかと思って目を凝らしていると、どうやら人影らしい。
それも、二人いるらしかった。
ユーリは呼吸をも押し殺しながら、じっとその様子を伺っていると、一人は昨日カイルのもとに来ていた男のようだった。
商人だったはずでは?、と不信ながらも凝視していると、草陰からもう一人が顔を出した。
「あっ!」
必死で口を抑えたが、このときの驚きをユーリはどう表現すればいいのだろうか。
――カイルさま!?
まだ完全に治りきったとは言えない腹の傷を気にしつつ、周りを警戒しながらこの家から遠ざかろうとしているのは、間違いなくカイルであった。
そしてユーリはカイルの右肩の、黒い蝶の痣を見た。
ちょうど朝露に濡れた袖を捲り上げたときに目に入ったのだ。
こんがらがった絹糸がゆっくりほどけていくように、ユーリは全てが判ったと思った。
父を殺めたという「黒蝶」は、カイルだった。
あの腹の傷は、おそらく父がつけたものだろう。
ユーリは二人の姿が完全に見えなくなるまで、呼吸をするのも忘れたのではないかと思えるほど、息をかみ殺し、泣き出したいのを必死に絶えた。
やがてその姿が朝日の中に消えたとき、ユーリは自分の身体の中でなにかが壊れたのを感じた。
堰を切ったように流れる涙、その頬を伝う熱さの、なんとも痛いことよ、といつまでも同じ方角を見つめつづけるユーリの目に、朝日が差し込んでいる。
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