船を出すなら



 ぼんやりと船縁にたたずんで、ユーリはたち働く人足たちを眺めていた。
 怒号に誓い言葉が交わされる。
「お嬢さま」
 気遣わしげな声がかけられる。まるで泥の中を進むような緩慢な動作で振り向くと、ハディがベールを掲げていた。
「どうぞ、船室にお入り下さい」
 素早くベールを巻き付けながらささやく。年頃の娘が、人々の目に触れる場所にいてはならない。
「・・・そうね」
 沈み込むユーリの気持ちを浮き立たせるように、ハディは明るい声で言った。
「お嬢様はマグレブを訪れたことはありませんのよね? マグレブとは日の沈む国という意味で、夕焼け時には街が金に染まってそれは美しいそうですわ」
「日の沈む国?」
 ユーリはこれから向かうはずの海の向こうに視線を向けた。
 今日は霞がかかっているが、晴れ渡る日には、蒼い水平の向こうに幻のような緑の帯が見えるはずだった。
「そこに行くのね」
 イヤだと言っても行くしかない。すでに街は暴徒に占領されている、やがては異教徒の一団もやってくるだろう。彼らがどれだけ異教徒に残虐なのか噂は聞いている。
「叔父上さまは、ユーリさまに何不自由ない暮らしをさせて下さいますわよ」
 ハディは言う。
 市長を務めていた父は暴徒の手にかかって命を落とした。そのすぐ下の叔父は商人をしていて、対岸のマグレブに広大な屋敷を構えているのだという。
 父の死をどう知ったのか、屋敷に引きこもるユーリのもとに、『迎えの船をよこす』と連絡があったのはつい先日だった。
「大丈夫ですわ、叔父上様はきちんと後見して下さって、お輿入れにも問題はありませんわ」
 お輿入れと聞いて、ユーリの胸は痛んだ。
 父は寛容な人だった。男親の承諾がなければ若い娘は出歩くこともままならないはずが、自由な行動を許してくれた。だから、街の施薬院に出入りし、怪我人の面倒も見ることが出来た。
『神は寛容を説かれたのだよ』
 父の口癖だった。市内の異教徒にも無理な税を押しつけなかったとも聞く。
 過ごしやすいと聞きつけて流れ込んだ異教徒の数はふくれあがった。
 それが、侵攻してくるスペイン軍の動きに呼応するように暴動を起こしたのだ。
 父は保護していたはずの異教徒に殺された。 そして、その父を殺した異教徒の怪我をそれと知らずに治療したのは自分なのだ。
 何も知らずに、彼に心躍らせた。
「カイルさま・・・」
 乾いた声でつぶやく。父の敵だった。けれど、愛していた。
「ユーリさま、おはやく船室に」
 ハディが背中を押す。甲板にはいつのまにか出立の準備をする荒くれ男たちであふれかえっていた。
「今日は、曇っちゃいるが風も良い、航海日和だ」
 甲板長なのだろう、ひげ面の男が声をかけた。
「お姫さんも心配しないでいい。なあに、異教徒の船が追ってきたって振り切ってやるさ」
「追ってくるかしら?」
 ハディが不安そうに訊ねた。
「さあね、単なる盗人どもなら追っては来ないだろうが・・・」
 スペイン軍なら違う。彼らは王族や貴族を引きだして本国へ連れて行くのだという。
 すでに首都グラナダは包囲されつつあるのだと聞く。遠く王家の縁者として貴族の一員に名を連ねているユーリにもその累が及ぶかもしれない。
「はやく出してちょうだい」
 ハディが焦れたように言うと、ユーリは肩に掛けられた腕を振り払った。
 船縁に駆け寄る。
 連なる山の向こうを眺める。そこに、後にしてきた街がある。
 そこで生まれ、そこで育ち、そこで出会って恋をした街。
 会った瞬間にこの人だと感じた。
 笑って花を髪に挿してくれた人。
 初めて贈り物をくれた人。
「あたしが、貴族だったから?」
 だから利用してやろうと思ったのか?
 父の娘だと知りながら近づいたのか?
 駆け寄りなじってやりたいことはいくらでもあった。
 何よりも叫びたいこと。
「あたしがあなたに惹かれていくのを見るのは、楽しかった?」
 けれど、唇からもれる言葉は力が無かった。
 ぐらりと身体が揺れる。船がゆっくりと岸辺を離れてゆく。
 枯れ果てたと思った涙が、ふたたび頬を濡らす。
 しゃらしゃらしゃら
 ポケットの中で玉の触れあう涼やかな音がする。カイルがくれた首飾りだった。
 何度も地面に叩きつけようとして、できなくてしまい込んでいたそれを取り出す。
 琥珀の玉に彫りつけられた精巧なハート模様。
 波打つ海の上にかざす。
 棄ててしまおう。今度こそ。
 あの裏切りを許すことなどできないのだから。
「まあ・・・」
 後ろで見守っていたのだろう、その時ハディの小さな驚きの声が上がった。
 ひらりと、視界を何かが横切る。
「荷に紛れていたのね」
 それは手のひらよりわずかに小さい黒い蝶だった。ひらりひらりと蝶はユーリのまわりを舞った。
 まるで、名残を惜しむように。気を取られて力の抜けた指先からネックレスが滑り落ちる。
 きらきらと輝きながら、それは揺れる海の底に吸い込まれた。
 泡沫に飲み込まれて行くそれを見送りながら、ユーリはふと首をかしげた。
「・・・カイルさま?」
 彼の息づかいを感じたように思えたのだ。
 答えるように、ふわりと蝶がユーリの肩に舞い降りた。
 いつか、カイルが肩に手を置いた時のように、ユーリは思わず目を伏せた。
 肩を借りた礼を言うように蝶は二三度強く羽ばたくと、離れ始めた陸地を目指して飛び立った。
 風に紛れてすぐにその姿は見えなくなる。
「無事に、たどりつくかしら?」
 そっと手を握りしめてユーリは呟いた。
 あの人は『黒い蝶』と呼ばれていた。恐れられた盗賊の首魁だった。
 でも、あの時言ったのだ。
『あなたを見ていれば、心の中の悪い部分が浄化されていくような気がするよ』
 それは彼なりの謝罪だったのか。
 ふとユーリは思い出す。
 暴徒が略奪を重ねる中で、身を潜めていた屋敷は襲撃を受けなかったことを。
 夜陰に紛れて街を抜け出したとき、無事に夜道を駆け抜けることが出来たことを。
 なにもかも、運が良かったと思っていたのだけれど。
 黒い蝶が別れを告げた先を眺める。
「・・・そう、なのですね?」
 ほんの一瞬の邂逅に過ぎなかったのだけれど、確かにふたりの間には同じ思いが流れていたのだと、そう考えてもよいのだろうか。
「おおい!」
 頭上で怒鳴り声が聞こえる。
「港が見えてきたぞ!」
 その声に、ユーリは立ち上がる。
 まだ心配そうに見守っていたハディにうなずくと、舳先に向かって歩き始める。
 緑の帯が海の向こうに広がっている。
 そこは、これから新しく暮らしていくことになる土地だ。
 これから先、誰かと出会うかも知れない街。
「ハディ、あの街はどんなところ?」
 声に明るさを感じ取ったのか、ハディは慌てて並んだ。
「賑やかな街ですわ、ほら、あそこに見える尖塔がモスク」
 弾んだ声を聞きながら、ユーリは胸一杯に潮の香りを吸い込んだ。



                  おわり

    

(the last time めぐり逢えたら 第四話

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