月の裏側 お題:秘めごと
「その時、きゅうにかあさまの前に大きな黒い馬が現れたの」
「アスランだあ」
クッションにもたれていた頭がぴょこんと跳ね起きた。
ゆるくウェーブのかかった明るい髪をなでつけながら微笑む。
「そう、アスランよ。そのアスランに乗っていたのはね……」
「なんだ、また母上との出会いの話をしているのか?」
突然かけられた声に、肘をついて寝そべっていた身体を起こした。
どうして、と顔に出たのかも知れない。けれど、声の主は意に介した風もなく、さっさと同じように身体を横たえた。
「あっ、とおさまだぁ!」
はしゃいだ声で、小さな手が陶器の馬を振って見せたのを目を細めて眺める。
「もっとも、わが皇子は偉大なる皇后ユーリ・イシュタルの話よりはその愛馬アスランの話が聞きたいだけのようだがな」
「陛下……」
かろうじて、それだけを喉から絞り出した。
今日はこちらにお渡りになる予定ではなかったのに。
ちらりと若い皇帝は眉を上げて見せた。
「……王女は今日はご機嫌ななめらしい。早々に退散することにしたよ」
わずかにゆがめられた口元に、胸を突かれる。
機嫌が良くなろうはずがない。嫁いだばかりの夫は身分の低い側室の所に入り浸りなのだから。
「やはり家族で一緒にいるのが一番だな」
「とおさま、ウルヒにおはなしきかせて!」
甘えてしがみつく息子を抱き上げると、皇帝は床の上に座り直した。
「よし、馬の話だな?」
たしかに、ウルヒは現皇帝のただ一人の皇子だ。だけど、この集まりを家族と呼ぶことは許されるのだろうか。
「……陛下」
本来、皇帝の家族とは皇帝と皇妃、そして嫡出の皇子皇女を呼ぶのだ。側室腹の子など、血統を守るための予備でしかない。藩属する国々に褒美代わりに与えたり、領主の謀反を監視するために地方に送られたり、あくまでも皇家を存続させるための道具として使われるだけのものなのだ。
「そうじゃないだろ、トゥーイ?」
出会った時と同じ、黒い瞳が見つめる。
「女官たちは下がらせてある。他人行儀な呼び方はやめてくれ」
人は誰でも身分に関係なく幸せになる権利があるのだと言った人。
その人と同じ黒い髪と黒い瞳だ。
「ごめんなさい、デイル」
言いながらもトゥーイは、顔を伏せる。
皇帝は正しい家族を作るべきなのだ。国の威信を賭けて他国より嫁いできた尊い身分の王女と共に、この国の将来を担う皇嗣たちを得ることが国のためになる。
正統な後継者のいない国はやがては乱れる。
それは分かっている。
分かっているけれど、彼がこの部屋を訪れない夜は胸の中を嵐が吹き荒れる。抑えていなければ叫び出しそうになる。
彼を独占してはいけないと分かっているのに。
彼が注いでくれる愛情を疑ったことなどない。けれど、嫉妬を抑えられない。
だから、もっとも彼に近いところにいながら、彼をいさめることができない。
あなたは、この国のためになにをすべきなのか分かっているのでしょう?
「トゥーイ、ワインをくれないか?」
「ごめんなさい、気がつかなくて……」
立ち上がりながら、楽しげに会話する親子をふりかえる。幼い息子は父親の頬に手を伸ばしながら舌足らずになにか一心に喋っている。時々相づちを打ちながら、低く笑い声があがる。
彼が至高の地位に就く人でさえなければ、微笑ましい情景だ。
言わなければ。
どうぞ、御正妃さまの元においでになって。
皇帝としての自覚をお持ちになって。
言わなければ。
唇を噛む。
あの方が知ったら、きっと失望する。息子をお願いと、死の床で握りしめた指が驚くほど細かったことを覚えている。
だから、言わなければ。
「やくそくね、とおさま!」
ウルヒが高い声を張り上げた。
「ああ、約束するよ。とおさまは約束は絶対守るからな」
デイルが答える。
トゥーイは頭を振る。
もう少しだけ。もう少しだけ「家族」でいさせて。
この国の未来も、義務も、責任もなにもかも。もう少しだけ、忘れていてもいいでしょう?
クリア(苦)
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