鬼燈ほおずき
 
   お題:鬼



 瞬間、わたしはそのひとを憎んだ。



 日ごとにわたしの身体の自由は奪われてゆく。身体は重く、動きも緩慢になる。
 少しずつ、だが確実に内側なかから身体が浸食されていくのが分かる。
 なにか得体の知れないものが薄皮一枚の下に息づき、わたしを変容させようとする。
 怖かった。
 わたしの中に寄生し、大きくなっていくそれに脅えた。
 日ごとに乗っ取られていく。
 身体の自由が封じられるのと同時に、わたしの精神までもが支配されるのではないかと私は畏れた。
 好きでもない男の子を宿すという恐怖。
 やがて、月満ちてその子を産み落とさねばならぬという恐怖。
 まだ少女だったわたしは脅えながら過ぎていく時間を数えていた。



「引きこもっていてはお体に障りますわ」
 つかいの言葉にうなずいたのは、縋りたかったから。
 いくら名門とはいえ、今は落ちぶれて娘を貢ぎ物にしなくてはならなかったらしい。
 気位だけは高いようだけれど、ろくにお支度もなかったそうよ。
 聞こえよがしにかわされる陰口。
 回廊を歩くたびに突き刺さる視線。
 そのひとだけが、わたしを気遣った。
 お国を離れて心細いでしょう。
 お辛いことがあったら、なんでも言ってくださいね。
 どなたも、国元を離れてお寂しいのですわ、誰かにあたらないと耐えていけないほど。
 どうぞ、分かってあげて。
 そのひとはひっそりとした微笑を浮かべた。
 わたしは夜半にようやく戻った自分の寝室で、声を殺して泣いた。
 けれど、この広大な宮で、わたしと同じように泣く女が他にもいるのだと思うと、少しだけ心は慰められた。



 誘われた先の中庭は明るかった。
 そのひとは緩やかな衣を纏って、床几に腰を下ろしていた。
 幼い子どもが数人、少し離れた場所ではしゃいでじゃれ合っている。
 暖かな視線でそれを見守っていたそのひとは、わたしに気づいた。
 典礼どおりに身体をかがめようとしたわたしをおしとどめ、もう一つの腰掛けを勧めた。
「あまりお食事がすすまないとお聞きしますが」
 気遣わしげに眉をひそめる。
「お国から、なにかお口に合うものを取り寄せましょう」
「いいえ、お気づかいなく」
 わたしは恥じた。本来なら、嫁いだ娘の懐妊には、祖国より様々な身の回りや祝いの品が贈られてくるのがしきたりだった。けれど、わたしの国にはそのような支度をするだけの国力がない。わたしの懐妊は祖国にとっては諸手をあげるほどの慶事ではないのかもしれない。
 わたしはみっともなく張り出した腹部を見下ろした。この中に、わたしの子がいる。
 わたしと、あの老いた皇帝との子が。
「近頃は、すこしは喉を通りますの」
 やがては、わたしと同じように、この後宮で取るに足りない存在だと見下される運命の子ども。そう考えるとたまらなく惨めだった。
 この国の皇統に自分の血を遺そうと決意して嫁いできた。けれど、わたし自身がなにも知らない子どもだった。父ほどに年の離れた男に身を任せるということも、地位のために寵を競い合うということも、どこかぼんやりと思い描くだけだった。連なる序列の中で、少しでも上の位置を占めようと、つねに誰かを引きずり降ろそうと窺い続ける視線の痛さを想像したこともなかった。
 子を宿したことは、足場を固めるよりも周囲の妬みを激しくしただけだった。私は弱り、引きこもった。
 不意に、わたしの目の前を小さな影がかけぬける。明るい色のそれは、はずみながらそのひとの膝に飛びついた。
「かあさま!」「あのね」
 子どもはふたり。ほとんど大きさの変わらない二人は、ひとりはわたしと同じ側室腹の子どもだと聞く。
 そのひとは微笑みながら、幼子たちの顔を等分に眺めた。
「どうしたの、カイル、ザナンザ?」
 無邪気な子どもが、わたしを指さした。
「おとうと、生まれるの?」「いもうと、だね?」「どっち?」
 わたしは息を詰めてそのひとの顔をうかがう。
 子どもの言葉が、同情を買っているだけの病んだ女はやがては子を産み落とすのだとあからさまにしたのだから。
 その美しいかおに、ほんの少しでもさざ波が起こりはしないかと不安になる。
「さあ、どちらかしら?」
 ゆったりと微笑みながら、そのひとはわたしの目をみつめた。
「どちらでも、わたくしは嬉しいわ」
 それは、盤石な地位に座っている余裕からか。それとも、今さら側室腹の子など物の数ではないと考えられるからか。
「お体を大切になさってね、ナキア妃。陛下の御子を宿していらっしゃるんですもの」
 これは欺瞞うそだ。わたしは思った。
 高貴な家に生まれたために、年の離れた皇帝に嫁して、たとえ皇后になれたところで、すでに先の妃が遺した皇太子がいた。両の手に余るほどの側室を抱えた後宮で、日々諍いを調停しながら気苦労の多い日々をおくっている。
 新たに生まれる子を歓迎なぞできるはずがない。
 なのに、そのひとは幸せそうに笑った。
「陛下の御子は、みなわたくしの子でもあります。だって、わたくしは……」
 ふと睫毛を伏せてはにかんだひとの言葉が、わたしを打ちのめす。


 あの方を愛していますから。あの方に連なる者なら誰をも愛せるほど。



 瞬間、わたしはそのひとを憎んだ。


 心の底から憎いと思った。
 愛する者との間に子を成し、かたわらに座ることを許された女を。
 明るい日差しの中で、我が子の成長を目を細めて眺めていられる女を。
 わたしはわたしを不安にさせていたものがなんだったのか、ようやく理解した。
 この、日ごと大きくなっていくもの。
 わたしを内側から浸食してゆくもの。



 わたしは、奇妙にゆがむ笑顔を形作りながら、目の前の満たされたひとを見返した。
 やがて、このひとから、すべてを奪い去ろうと決意しながら。


                                                               クリア。
 

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