海に出るつもりじゃなかった   お題:遊園地



 身体がわずかに揺れて、車が止まった。
 着いたぞ、とも、ここだとも言わずに、父親はエンジンを切るとハンドルの上に肘を載せた。
 暮れてもなお淡い光を放つ空に、複雑に組み合わされた黒い影がそびえていた。目をこらせばそれは、起伏の連なる一本の曲線になった。
 明日から解体だって。
 言い出したのは誰だろう。
 皿の並べられた食卓を置き去りにして、ここまでやって来たのだ。
 少子化と、不況と。集客力のある大型レジャーランドに地元の足が流れたせいもある。惜しいことをと言いながらも、 最後にここを訪れたのがいつかと問われれば、思い出すことも困難なほど遠い昔になってしまう。
「遠足で来たな……」
「……あたしも。うちの小学校って絶対ここだよね?」
「───そう言えば」
 すでに廃墟の様相を呈する遊園地を前に、ことさらに明るく会話する姉妹に、母親が最近めっきりと重くなった口を開く。
「あの子、背が低かったから一人だけジェットコースターに乗せてもらえなかったって、帰ってから怒ってたわ」
 鉄骨の軌道を走るカラフルな車体を追うかのように、母親は目を細めた。
 ほんの一呼吸、姉妹の間に空白がすべり込む。
 ひどく遠い昔だけれど、家族揃ってここに来たことがある。セピアに色あせたはずの記憶は、ところどころ原色で彩られている。観覧車のまぶしいイエロー、電気機関車の華やかなレッド、池のそばの回転木馬の屋根は目を射るグリーンだった。
「それって、いつ?」
 姉の毬江が穏やかに訊ねる。彼女はいつも、母親にとって一番の理解者であろうとする。
「4年の時」
「ええっ? あたしは乗れたよ?」
 妹の詠美はおどけた声をあげる。沈みがちな家族を盛り上げるのは彼女の役割。
「あの子は小さかったから」
 そこで会話は途切れる。
 沈んだ空を光点が横切っていく。人工衛星か、飛行機か。空を見上げることすら最近はまれだ。
 観覧車やジェットコースターを彩るイルミネーションが灯らなくなったのはいつごろからなのか。閉園の噂を耳にしながらも、訪れてみることはなかった。今となれば、一度ぐらいは来てみればよかったと思う。
 繰り返されるストリートオルガンのメロディーを聴きながら、タイルの敷かれた舗道を歩き、色あせた遊具を眺める。宙返りも垂直落下もない上下に揺れるだけのジェットコースターを見上げながら、子どもの頃どんなにねだっても買ってもらえなかったアイスクリームの三段重ねを食べてみたかった。
 今となっては遅い後悔が、胸を浸す。
「ここにはマンションが建つそうだ」
 父親が、フロントガラスごしに鉄塔を指した。
「動物園のあたりが、分譲住宅。ショッピングセンターもできるらしい」
 左手に、暗く沈んだ影がある。昼間のそこには大きく育った古木の群れが濃い緑の森を形作っていたはずだ。
「キリンってどうなったんだろう?」
「どっかのサファリに引き取られたって聞いたよ。猿は市民公園だって」
「群れを一緒にしたら、ボス同士でケンカしないかな?」
「別のオリになるんじゃないの?」
「───夕梨は驚くでしょうね」
 当たり障りのない会話を続けようとした姉妹に、母親がふたたび割り込んだ。
「帰ってきたら、公園がなくなってるんですもの」
 暗い車内で、後部座席のふたりの間に素早く視線が交わされた。
「うん、驚くね」「ほかにもいろいろ変わってるから」
「でも新聞とかニュースで知ってるかもしれない」
 突然、詠美がシートの背に手をかけて身を乗り出した。
「ねえ、お腹空いた!帰ろうよぉ」
 家族の中では子どもっぽく振る舞うこと。それが両親を安心させることを知っている。
 四人が詰め込まれた車内に、冷気が忍び寄る。
 カチリとキーをねじる音がし、低くエンジンが唸りはじめる。
「そうだな、帰るか」
 父親はハンドルを握る前に、そっと助手席の肩へいたわりの手を置いた。
 復活したカーステレオからはリクエスト曲なのだろう、最近流行のポップスが流れはじめる。
「……こなければよかった」
 シートに身体を沈めながら詠美は小さく呟いた。
「そういうわけにもいかないでしょう」
 毬江は唇の動きだけで答えた。
 あれから、7年。本当にいなくなったことにしてしまえる時間が流れた。
 目をきつく閉じれば、変わらない笑顔がそこにあるのに。
 いいや、変えられない笑顔だ。今、どんな風に彼女が変わっているのか、ここにいる誰も知らない。
 いくつかの切り返しの後、来た道を戻りはじめた車の中で詠美は振り返った。

 ──────かつての遊園地は、黒い影を天に突き立てたまま沈黙している。
 

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