雨は降る降る お題:雨
「困ったものだな」
朝から何度目かの主人の言葉に、キックリは内心首をかしげた。
幼い頃よりそばで仕えているが、この周囲の誰もから文武共に優れた能力を賞賛され続けている年若い主人がこう何度も弱音とも思える言葉を口にするのを聞いたことはなかった。いや、それよりもなによりもキックリの腑に落ちないのは、当の主人がそのじつ、少しも困っているようには見えないことだった。
このような場合にはなにを言えばよいのだろう。
主人の意を汲むことにはたけているつもりだ。なにかを命じられるよりも早く、主人の要望を叶えようと手を回すことはよくあった。しかし、これではどのように動いたものか。
従者の困惑など知らぬげに、高貴な人は窓の外に目をやり、ため息をつく。
「雨は困るな」
どちらかというと内陸部特有の乾燥気候だが、ハットウサでも雨が降らないことはない。
高台にある都は多少の雨では水に浸るということもないし、この雨で牧草地はまた新たな緑が芽吹くだろう。むしろ、ここでは雨は歓迎されるものである。
思い当たる心配事にも、充分に対処したはずだ。
なにがお困りです。
思わず訊ねそうになるが、キックリは持ち前の自制心で口をつぐんだ。
病みがちな皇太子に代わって、本来皇位継承者のみが裁可を許されている粘土板を手に持ったまま、キックリの主人である第三皇子カイル・ムルシリは、ふたたび窓の外に目をやった。
明け方にぽつりぽつりと降り始めた雨は、今ではすっかり勢いを増し盛大な飛沫を室内にまで飛び込ませている。皇子の目は水幕を通して後にしてきた宮を見ているようだった。
「随分と強くなりましたね」
書記官の一人が、窓際に寄ると扉を閉めようとした。別の書記官は翳りはじめた室内に、夜間用の油皿を引きよせて灯りの数を増やそうとしている。
「これでは宮に戻られるまでに、随分と濡れてしまわれますな」
老皇帝に若い頃から仕えている執政官が強張った肩を揉みほぐしながら椅子の背に身体を預けた。
「本日はこちらにお泊まりになられますかな?」
わたしはそうさせていただこうと、口の中でもぞもぞと続けた。皇帝の信頼の篤い彼だから、王宮内に私室も与えられている。どちらかというと息子達に軍事の手本を示すことが多い皇帝に代わって、政務を指南しているのは彼だった。
「いや……」
歯切れの悪い主人に、キックリはようやく口を開いた。
理由あってここ数日の夜歩きすら控えている。引き留められては困るのだ。
「宮でお待ちの方もおられますので」
「おお」
老いた執政官はたちまち顔をほころばせた。珍しく口ごもる皇子の態度に、合点がいったとばかりにうなずいた。
「そうでしたな、殿下は新しいご側室を宮に迎えられたのでしたな。それでは是が非でもお帰りにならないと」
まるで頃合いを見計らったかのように、雷鳴が轟いた。
執政官は心得顔でなんどもうなずき顎を撫でた。
「これで合点がゆきましたわい。ご側室さまは、殿下の先ほどからのご心配ぶりを拝察しますと、もしや雷が苦手なのでは?」
だから困っているのだと。
キックリは主人の顔をうかがった。あの、宮に残してきた少女が雷に脅えるのかどうかは知らない。だが、この主人があの少女を思いやっていることは確かだ。
「なにしろまだ子どもだから」
いかにも心配している風に眉を寄せて見せた主人に、そつのなさは相変わらずだと感心する。
手がかかって困ると言いながら、じつはそこがかわいくて仕方がないと。
雨が降ると当然水で囲まれることになる。皇妃がどのように仕掛けてくるのか分からないから外に出るなと、あの型破りな少女を奥まった部屋に押し込めてきたのだ。しかし、そのことはさすがに言えない。新しい若い妃に気もそぞろな若者として振る舞った方がこの皇家に忠実な老人の理解は得られるだろう。
いや、先ほどからの態度はそれを引きだすためだったのかも知れない。
「では、ここでこうしてもおられませんな」
腕をわずかに持ち上げて、執政官は顔をしかめた。皇子を引き留めることができるのが彼なら、放免することができるのも彼だ。
「どうも年を取ると目が疲れます。今日の所はここまでにしておきましょう。こう暗くては仕事にならない。殿下もはやくご側室さまの元へ戻られませ」
「……そうさせてもらおう」
狙い通りの言葉が引き出せたためか、皇子の憂い顔はようやくほころんだ。
素早く防水のための油引き布の調達方法に思いを巡らせながらも、キックリは感じていた違和感がなんなのかを知った。
主人はあの風変わりな少女の身を案じているのだけではなく、おそらくは、退屈しているだろう少女の無聊を慰めたいのだ。いや、そのような堅苦しい言い方はあまりふさわしくない。
単純に言ってしまうのなら─── あの少女と一緒に過ごしたいと思っているのだ。
そう、恋人と一時も離れたくないと考える若者のように。
それのどこがおかしいのだろう。将来を嘱望されている傑物ではあるけれど、主人とて普通に恋をする一人の青年なのだ。
「戻るぞ、キックリ」
演技でもなんでもなく、弾んで聞こえる声に頭を下げる。
「ユーリさまが喜ばれますね。夕刻までお戻りにならないはずでしたから」
「……わたしはアレが心配なんだ」
少し乱暴に言い捨てた主人の顔が、ほんのわずか上気しているのが分かるのは長年仕えていたキックリだけなのだろう。
思えば、あの少女が現れてから、主人の珍しい姿ばかり目にしている気がしている。
感情を露わにするところなど数年見ていなかった。慌てた顔も、心配顔も、不満顔も、いらついた顔も、みな良くできた人当たりの良い皇子という仮面の下に覆い隠されて来た。
「そうだ、ユーリにセネトを教えてやろう」
そして、こんなに楽しそうな顔も、目にすることがなかった。
「なんだ、キックリ?」
思わず笑ってしまったのだろう。皇子は憮然と訊ねた。
「なにがおかしい?」
「いえ……失礼しました」
そそくさと帰り支度の身繕いを手伝いながら頭を下げる。あの少女だからこそできたのだろう。
キックリは、この変化は好ましいと感じた。
「きっと、お喜びになりますよ」
少女のはしゃぐ声が思い浮かぶ。
それは雨に閉ざされた陰鬱な宮の中で明るく響き渡るだろう。やがては、もう一つの笑い声を誘いながら。
クリア!
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