Cold fever お題:冷たい手
なま暖かい手のひらが胸の上を這っている。湿ったその手の感触がたまらなく煩わしい。
「用が済んだら出て行けよ」
意識せずに吐き捨てるように言っていた。一瞬動きを止めた手は今度は首筋を這い登った。
押し殺した笑い声。もつれた髪で縁取られた顔がのぞき込む。
「そんなこと言って……慰めてあげたのに?」
軽く首を絞めるマネをして、女の真っ赤な唇が笑った。
一瞬、ラムセスはその女を振り払おうとして、思いとどまった。
「……あんたが楽しんだんだろうが」
おおよそ交情の後にはふさわしくない殺伐とした会話だと思う。
女はまた喉の奥でくぐもった笑い声をあげた。この程度でひるむほどしおらしいタマではない。だからこそ、今夜の相手に選んだのかも知れないが。
「そうね、楽しかったわ」
身体を起こすと、乱れた髪をかき上げた。大きく張り出した乳房が重たげに揺れる。
その弾力のある感覚を手の中に思い出して、ラムセスは顔を背けた。
「なにを荒れてるのか知らないけど」
女は裸のまま寝台に座りピンを使って髪をまとめはじめた。白い背中は記憶にあったとおりのなめらかさでいささかの年月も感じさせない。
「あなたらしくないわね?いつだって小憎らしいぐらいに余裕だったじゃないの。ガキのころから」
たちまちのうちに黒髪は結い上げられる。女の髪が黒かったことを初めて知った。
ガキだったころは、その髪はカツラの下に隠されていた。かわりに豊満な身体をおしげもなく見せる薄布を纏って、父の屋敷を闊歩していたものだ。
「なに?」
視線を感じて女が振り向く。
「いや、黒髪だったんだな」
「ああ」
手早く衣装に袖を通して、女はふたたび笑った。身体の線がすっかり隠れる、シリア風の衣装だ。それを身につけると、商家の落ち着きのある奥方に見えなくもない。
「いまお世話になっているのは、シリア人だからね。自毛がお好みなのよ」
悪びれもせずに言うと、立ち上がる。手早く耳飾りをつけながら、また笑った。
よく笑う女だ。けれど、心の底から笑ってはいない。
ラムセスはぼんやりとその顔を眺めた。
雑踏の中で再会したのは今日のこと。一目で、また男の囲い者になっているのだと分かった。いつかと同じように誘いかけてきた。
なぜ、のったのだろう。
父親とその息子と、同時に両方に肌を許す節操の無さを嫌悪していたはずだ。若い頃には嫌悪しながらもその妖艶な身体の誘惑に勝てなかった。だが、今は。
心が弱っているのだろうか。
「ねえ、また会いましょうよ」
「あんた、旦那がいるんだろうが」
ことのあとでは、その言葉は陳腐すぎるが。父の妾だった時代にも、その息子に色目を使った女だったはずだ。
「エロジジイの相手ばっかりじゃ楽しくないのよ」
女は言うと、身体をかがめた。覆いかぶさるようにラムセスの唇を奪う。ねっとりとした舌が口中を舐めまわすのを黙って受け入れる。
飽きるまで貪ったあと、女はため息をついた。
「あなた、すごくいいわ。あの坊やがこんなにいい男になるなんてね」
「どうせ屋敷には他に若い男がいるんだろう?」
邪険に重なる身体を押しのけながら言う。女のつけた香水が強くまとわりつく。
この香りは嫌いではない。頭の芯が痺れて、考えることを放棄できるから。
「本気になられるのも面倒だから。あなたはその点、大丈夫だし」
女の言葉に揶揄を感じて、ラムセスは眉を上げた。
「いいえ、本気になりたくてもなれないってところよね?」
女の目が光る。猛禽類の目だといつも感じていた。狙った獲物は逃さない。小さな生き物をいたぶることに喜びを感じる目。
淫蕩で、誰かとはまったく対極にある女。
「噂ぐらい聞いてるわよ?旦那は王宮にも出入りしているから」
「なにが言いたい?」
「わたしなら、あなたがあの婚約者の代わりに抱いても文句は言わないってことよ?」
また、なま暖かい手が触れてくる。
女の言葉に、一瞬忘れようとしていた姿が浮かんだ。
この女とは、対極に位置するような女。
青臭いほどの正義感と、ひたむきさを持った女。
シーツの上に散らばる黒髪と青く閉じられたまぶたと。
「ふざけんな」
手を払っていた。汚されたと思った。
「あいつの代わりになれるなんて、思い上がるな。あいつはおまえとは違って──」
力無く投げだされた腕。生きているのかさえ不安で握りしめた手のひら。
凍るように冷たくて……。
「──だから、だれにも本気になれない」
女がけたたましく笑った。嘲笑だった。
「かわいそうに、ねえ」
ねっとりとした視線がラムセスを見下ろした。
「そんなに好きなのに、手に入らないなんてね」
「出て行けっ!」
はね起きて叫んでいた。
もし手の届くところに剣があれば、切り捨てていたかも知れない。
女はひらひらと歩き、哄笑を残したまま扉を乱暴に閉めた。
ラムセスは唇を震わせると、小卓の上のものを力任せになぎ払った。
シーツをたぐると身体を丸める。女が触れた場所にまだ熱が残っている。それは傷口のように痛んだ。なぜ、あんな女を抱いたのだろう。
膝を引きよせて、己の手のひらを眺める。
この中に、あの小さな凍えた手があったのだ。
冷たくて─────愛しい。
守ってやりたいと思った。笑顔を見せて欲しいと願った。
「……ユーリ」
膝に顔を埋める。
出て行った女の言葉が甦る。
───だれにも本気になれない。
そうだ、だから誰でもいいと思った。ほんの一時、それを忘れさせてくれるなら。
あの心の芯まで冷やした記憶を忘れたくて、ひとときの熱を求めた。
「……忘れられるかよ」
あの手が与えた冷たさが、心の底で今も静かに凍りついている。
クリア
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