河はやがて海に至る お題:螺旋
「東へ……?」
ゆるぎない黒い瞳にひたと見据えられて頭を垂れる。
「はい、お見送りしました」
「そう……ですか……」
ため息に、アサティルワは顔をあげた。
「私を処分なさいますか?」
「わたくしがそうしないと分かっているからこそ、あなたは報告したのでしょう?」
本来なら斬首は免れない大罪を犯したはずだ。国を危うくしたのみならず、アワティルワの手助けしたことは、結果的にこの目の前の美しい婦人から大切な娘を奪うことになったのだから。
「エジプトとの開戦は避けられました。だから、いまさら『ユーリ・ナプテラ皇女』が現れては困ります」
開戦を避けられたのは当初の計画通り『ユーリ・ナプテラ皇女』がラムセス二世と婚儀をすませたから。
身代わりに嫁いだのは、この婦人の娘。
黒髪の美しい清楚な姫だった。
「マリエ殿下、エイミ姫のことは」
「あの娘はああすることが生まれ持ってきた運命だったのでしょう。そしてユーリ姫も」
人払いをした室内の、帳を厚くおろした窓に近寄ると、マリエ・イナンナ妃はそこから見えるはずの外を透かし眺めた。
「東に向かわれたのですから」
ほんの瞬間、マリエ皇女の言葉に憧憬を感じてアワティルワはいぶかしむ。
「東に向かうのが運命だったと?」
「ええ……これは秘密のことだけど」
落とした視線の先に組み合わされた公妃の指がある。その指が白く握りしめられているのをアサティルワは見た。
「お父さまが、いつかは東へと……」
「ムルシリ二世陛下がですか?」
伝えられる、また記録された書物からも読みとれるムルシリ二世は拡張政策をとらぬ、穏健な賢帝だったはずだ。それが東へ国を広げようと画策していたと言うのだろうか。
顔に怪訝な様子が見て取れたのだろう、公妃はゆっくりと頭を振った。
「いいえ、違います。そういう意味ではなくて
──── わたくしの母、ユーリ・イシュタル皇妃陛下が東の国の生まれであるのは知っていますね?」
「東に生まれた、たぐいまれな御方をテシュプが泉を通してこの国にもたらされたとお聞きしました」
「だから、いつかは帰さねばならないと」
マリエ公妃は遠くを見つめた。
「お母さまが身罷られてから、お父さまはいつもそのことを仰ってました。
──── こんな異国に留めおいたからあれは逝ってしまったのだと。東の国に帰すべきだったと。
もちろん、そんな必要などなかったのですけどね。お母さまはお父さまのそばでお幸せでしたもの。
わたくしたちはお慰めしました。お母さまがどんなにお幸せだったか思いだして下さいと。お父さまがそれを信じられないのならお母さまがお気の毒です。
そうしたら仰られたのです。
──── いつか、東の国に。何年かかっても、何代かかっても、伝えなければならない
──── この国でユーリは生きて逝った、と」
マリエ公妃の指が小刻みに震えた。
「いつかは、誰かが旅立たねばならなかったのでしょう。ユーリ・ナプテラさまはご資質もお心持ちもユーリ・イシュタルさまによく似ておられるのだと聞きます。だから、これがあの姫の運命だったのです、お母さまからハットウシリ陛下を通して受け継がれた」
では、エイミ・ハクピッサ姫に受け継がれたものは?
無言の問いかけに、マリエ公妃は潤んだ瞳で無理に微笑んだ。
「この国を守りたいと願ったお母さまの想いは、あの子に受け継がれたのですわ」
ユーリ・イシュタル皇妃は一目見たら忘れられない黒い瞳と黒い髪の美しい女性だったのだと言う。その美しさをすべて引き継いだのは一人娘のマリエ・イナンナ皇女だったとも。
そして窺い見たエイミ姫は、母の皇女によく似ていた。彼女がユーリ・イシュタルから受け継いだものは容姿、そして運命。
アサティルワはもう一度深く頭を下げた。
にこやかに腕を振ったユーリたちの姿が思い浮かぶ。彼女たちは晴れ晴れと日の昇る東へ向かった。その国がどこにあるのかは知らない。
けれど、彼女たちなら辿り着くだろう。どれだけ時間がかかっても、やがては子を成し、その子が、そのまた子が。
いつかムルシリ二世が願ったように。
そして、膝を折ったエイミ姫の姿も思い出される。豊かな黒髪を惜しげもなく切り落として、決意を秘めた黒い瞳は美しかった。
もしかしたら、彼女もまたいつかどのような形でだか、東へと向かうのかも知れない。
女神の血を受け継ぐと言うことは同時に運命を背負うこと。
「ありがとう、アサティルワ。話しにくいことをよく話してくれました」
公妃の声に震えを感じて、アサティルワは顔をあげることができなかった。
人はいつかはどこかにたどりつかなくてはならない。
けれどそのことを、なんの前触れもなく娘を失った婦人に言ってどうなるのだろう。
顔を伏せたまま、アサティルワは部屋を退出する。
扉を閉める時、かすかに嗚咽を漏れ聞いた気がした。
クリア?
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