once upon a time   お題:君は誰



「はい、コーヒー。熱いから」
「ん……」
 伸ばされた片手が空中をさまよい、詠美はひそかにため息をつくとその手に触れるようにマグカップを押しやった。
「ありがとう……あちっ!!」
 引き伸ばされた写真に視線を固定したままカップを口に運び、小さく悲鳴を上げる。
 吹き出した詠美に、ばつの悪そうな顔をすると、氷室はカップを置いた。
「ごめん、上の空だった」
「すっかり心奪われてるね、彼に」
 氷室の手元をのぞき込んで詠美は呆れたように言った。
 全紙サイズいっぱいにプリントされているのは楔形文字で埋め尽くされた粘土板だ。
 スーツケースを開いたらこれがぎっしり詰まっていた光景を思い出して、詠美はまたもやため息をついた。
 服なんかはどうしたの、と訊ねた詠美に、氷室は悪びれもせずに答えたのだ。
 うん、入らないから、置いてきた。
「そうだな、最近は夢にまで出てくるんだ。もう恋しているって言っても過言じゃない」
 心底嬉しそうに、氷室は笑った。
 婚約者相手に、言っていい言葉ではない。けれど氷室の言葉は邪気が無さすぎる。
「わたしのライバルって、手の届かない相手ばっかりだっていうのは……ラッキーって思った方がいいのかな?」
「なに?」
 すでにふたたび楔形文字に意識を取られながら氷室が聞き返す。片手にマグを、もう片手にはペンを握りしめ、一字一字にアルファベットを振っている。根気のいる作業だ。
 惚れた弱みで、詠美は曖昧に笑うと、氷室の横に肘を突いた。
「それって、なんの文書?」
 遺跡から大量に見つかって、倉庫に未整理のまま積み上げられていた粘土板の数々をアーカイブ化する作業チームに、氷室が抜擢されたのはつい最近。
 研究者として認められたという意味では喜ばしいことなのかも知れない。
 だからプロポーズをされもしたのだろう。食べていくめどはついたということだ。しかし、婚約以来お互いに目と目を見つめ合って会話を交わしたのは何回あっただろうか。虚しくなるので数えていないが。
「う……ん…ムルシリ二世の……」
「歴史書ね?」
 詠美だってオリエント史研究家のはしくれだ。膨大な文書を残した記録魔の皇帝のことは知っているし、文書の主なものには目を通した。
「いや、典礼記録」
 氷室は言うと、すでにアルファベット化した部分をペンで指した。
「ここのところ、おもしろいんだ。祭礼のために皇帝夫妻が揃ってアリンナに向かっている。ムルシリ二世より前の皇帝の治世だと、皇帝だけが神事を執り行っているのに。
 つまり、彼の時代から皇室の神権が強化されたと考えてもいいんじゃないかな?彼の孫の世代だと、オリエントの君主には珍しく皇帝を神格化するようになってくるし、皇妃が女神の生まれ変わりだという考えも出てくる。
 それにこの神事だけじゃない、ムルシリ二世はどこに行くにも必ず夫婦単位で行動している。そういう計算が働いていたんじゃないかな」
「そうなの?」
「そうだよ」
 詠美は唇をへの字に曲げて楔形文字を眺めた。最近、氷室の口から聞かされるのはムルシリ二世のことばかりだ。
 詠美が時間を掛けて作った自信作のポトフをひとくち食べたとたんに、氷室は顔を輝かせて言ったものだ。
『そういえばムルシリ二世の御代にはタマネギが…』
 皇帝だってなにもあんなに熱心に記録を残さなくても良かったのに、と不謹慎なことを考えてしまう。せいぜい100枚や200枚の粘土板なら、とっくに整理は終わっていただろう。いやそうすると氷室に出番はなくなるのか。
 3000年以上前にとっくに死んでしまった皇帝陛下に、少しばかりの嫉妬を感じながら詠美は写真をつついた。
「皇帝はたんに奥さんと一緒にいたかっただけじゃないの?」
「まさか、そんな理由で皇帝ともあろう人は行動しないよ」
「でも彼は奥さんが死んだ時、長い『泣き言』を綴っているんでしょ?」
 考古学者の間では有名な文書の一節を思い出しながら詠美は言った。
「あれだけ長々と神様にまで恨みごとを書くんだもの、よっぽど奥さんが好きだったのね、って思ったんだけど」
「そうかなぁ?」
「そうよ?」
 そんなに単純なものじゃないとぼやく氷室の前で、まだ手つかずのまま積み上げられている粘土板の写真を一枚抜き取った。
 単純なのかどうかは分からないけど、少なくとも恋愛に関しては氷室よりは鈍感ではない自信がある。
 執念すら感じられる細かく刻み込まれた文字の羅列に、色恋沙汰が入り込まないと誰が断言できるのだろう。
「決めた、わたしはムルシリ二世妃に夢中になることにする」
 これが意趣返しになるのかどうかは分からない。
 詠美の言葉に、氷室は顔をあげた。
「でもムルシリ二世妃についての記録はあまりないんだよ」
「って、調べたの?」
「……いや、まだだな」
 層をなす写真に目をやって、氷室は顔をくしゃりと崩して見せた。
 この中に、まだ見ぬ二世妃の記録が残されているのかも知れない。あるいは、ここにはなくても、木箱に入れられたまま地下室で眠りを貪っている膨大な文書の中に。
 詠美はペンを取り上げると、最初の楔形文字を置き換えた。
「これって、共同戦線なのかな?」
「……共同作業だろ?」
「ふふ」
 それはなかなか愉快な想像だった。
 婚約者を夢中にしている男性を、さらに夢中にしている女性がいたのだとしたら?
 その人を見つけ出したいと思った。
 3000年前の仲良しの二人を見つけ出して、氷室に見せるのだ。
 ね、世の中って結構単純でしょ?だって、男と女はいつの時代にでも存在するんですもの。
「……だから、出てこい、皇妃」
 つぶやくと写真に目を走らせる。
 隣には一心にペンを走らせる音。すでにそばにいる詠美のことなんか忘れているだろう。
 呆れながらも、幸せな気分。
 記録魔で一日文書とにらめっこしていた皇帝の横で、3000年前の彼女もこんな時間を過ごしていたことはあるのだろうか?
 ねえ、男ってしょうがないよね?すぐに夢中になっちゃって。でも、ま、そこがいいんだけど。
 詠美は秘かに笑いをかみ殺すと、楔形文字に取り組みはじめた。


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