誓う夜   お題:予定外の出来事



「そういえば、兄上はご正妃以外に妃は迎えずに、その方一人を愛されるのでしたね」
 久しぶりに再会した兄弟だけの宴である。人払いはしてあった。
 わずかにワインで顔を赤らめた弟が、手の中でカップを転がしながら言った台詞に、私は思わず顔をあげた。
「マリ?」
 急に身体を起こした私の勢いに、マリは驚いて目を見開いた。
「もしかして、このことは口にしてはいけなかったのでしょうか?」
「いやいい」
 ため息をつくと、もう一度クッションに上体を預けた。
 ユーリを正妃にしたいと元老院には宣言していた。ための遠征でもある。
 けれど、ユーリを正妃に立てることに同意した議員たちでも、さすが、他の妃を迎えないことなど認めないだろう。
 皇帝の後宮に有力議員の娘を迎え、藩属国の姫を娶る。そうやって帝国は機能してきた。
「……ザナンザか?」
 一番気の置けない腹心の弟にはなんどか夢を語ったことはあった。
 私は戦いのない平和な世を築こう。そして、かたわらには・・・
「イシュタルさまを初めてご側室にお迎えになった時に……」
 ばつが悪そうにマリは言った。
「ザナンザ兄上がおっしゃられたのです」
──── 兄上は正妃にふさわしい方を迎えられて、生涯その方お一人を愛し抜こうとおおせだったのにな。
「あ、でも、ザナンザ兄上はこうも言っておいででした」
 マリは慌ててつけ加える。
──── しかし、あの兄上が選ばれた姫だ。優れた資質をお持ちなのだろう。
「そして、兄上の言葉に間違いはありませんでした。イシュタルさまは統率力に優れ軍略に長じた、まさにこの国を勝利に導く御方なのですから」
 私はザナンザと夢を語り合っていたころを思い出した。
 まだ見ぬ正妃の姿を、漠然とすら思い描けずにいた頃。私は、まだユーリとは出会っていなかった。
 あの突然私のふところに飛び込んできた少女が、なにものにも代え難く愛おしいと思えるようになるなどと想像すらしていなかった頃。
「……ほんとうにそう思うか?」
 先ほど部屋に残してきたユーリを想う。
 戦いの女神と呼ばれるユーリは、私が肩まで引き上げてやった掛け布団の下から黒い瞳を覗かせてお休みの口づけをねだった。
『マリ殿下とは久しぶりなんでしょう?ゆっくりしてきてね』
『すぐに戻ってくるよ』
 手の甲で頬を撫でると、はにかんだ笑顔を見せた。
 小さくて、柔らかで、いつも腕の中で守ってやりたいと思わせる女。女と呼ぶにはまだ幼くて、背伸びする姿も痛々しい。
「ほんとうに、あれが戦いの女神で、正妃にふさわしい女だと思うか?」
「兄上?」
 いぶかしんでマリが首をかたむける。
「それは誰もが認めていることです。だからこそ、兄上はイシュタルさまを御正妃にと望まれるのでしょう?」
──── 私は私の正妃になるものにきびしい要求をするだろう。人の上に立つ器量、自戒心、自制心、そのほかにも多くのことを。
 あの、大きな寝台に埋もれるように眠っている小さなユーリに、望んだこと。
「本当は、あれをタワナアンナなどにしたくはないのだ……」
 我知らず、言葉がもれた。
 マリは驚いたようだが、黙って続く言葉を聞いていた。
「私の正妃になれば、あれはいやがおうにも醜い政治の世界に巻き込まれることになる。私はあれを過酷な戦場に送り込んだだけではなく、もっと醜悪な世界にも投げ入れようとしている」
 政治の駆け引きを知り、泣いて私を責めたユーリ。私のためにすべて耐えると言ってくれたユーリ。私はユーリに辛いことを強いようとしている。
「……私は兄上を信じていますから。兄上が選ばれたのなら、イシュタルさまは誰よりも御正妃に、兄上の唯一の妃にふさわしいのです」
 マリが曇りのない瞳で私を見返す。
「兄上のなさることはいつも正しいのですから。どうぞ、兄上はご自身とイシュタルさまをお信じになって下さい」
 私は言葉を飲んで、目の前の弟を見つめ返す。彼は、こんなに強い言葉を持っていただろうか?
 幼い頃、傷だらけになってふざけ合う私とザナンザを、乳母の腕の中から覗き見ていた弟。池に転げ落ちた私たちを見て泣き出した、幼い日のマリ。
 マリは不意に顔を赤らめた。
「すみません、偉そうなことを言って。すべて私が至らないからいけないのですね。ザナンザ兄上がいらっしゃったら、イシュタルさまも兄上もこんなところまでおいでになる必要はなかったのに」
「ザナンザは……」
 もうなんども胸の中で繰り返した言葉を、私は喉から押し出した。
「もういない」
 ザナンザがいればユーリを戦場に送り出すこともなく、子を宿したあれの身の安全に頭を悩ませる必要もなかっただろう。
 けれど、ザナンザはいない。
「はい、それは分かっています。でもザナンザ兄上なら、イシュタルさまを御正妃にと推挙なさることもできたのだろうと思います」
 マリが唇を噛む。力のないことを悔やむように。
 身分のないユーリを正妃に立てる条件は、彼女を戦場に送り出すこと。
 ザナンザが生きていれば、条件など必要なかったのか。たとえ条件があったとしても、戦場でユーリを守ってくれただろうか。
 なんども自問したことだ。
 私は、目の前で拳を握りしめている弟を見つめる。
 まだ完全には大人になりきれていない少年らしさの残る顔。
 どこか、夢を語り合った頃のザナンザと面影が重なる。
「……私には、まだおまえがいる。おまえは私のたよりになる弟だ」
──── 兄上、私もお手伝いします!
 榛色の瞳が輝いていたあのころ。
 あのひたむきさは、今もこの目の前の弟の中にある。
 マリの顔が紅潮する。
「はい、兄上!」
 一緒においでと手を伸ばしたら、顔を輝かせて駆け寄ってきた幼い頃と同じ顔で、マリがうなずく。
「エジプト戦の勝利のあかつきには、私もハットウサへ参ります。議員たちや皇太后陛下に、イシュタルさまがどんなに御正妃にふさわしい方か証言するつもりです。それに他に側室など必要ないとも。私だって、有力な皇族なんですからね」
「頼もしいな。ありがとう、マリ」
 私はワインを注いだカップを掲げて見せた。
 こんな時がやってくるなどと、考えたこともなかった。
 私はユーリを得て、ザナンザを失い、そして────
 ──── そうだ、まだ、私には心許せる味方がいるのだ。

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