早春賦 お題:モノクロ
「これを」
おずおずと差し出された枝に、思わず顔がほころぶ。
赤茶けた木肌と同じ色の蕾は、わずかに先端から花の色を覗かせている。
「まあ、これを私に?」
「見つけたから」
その人は少しはにかみながら笑った。
「お気に召すでしょうか?」
「ええ、とても」
初めてお会いした時、息が止まってしまうのではないかと思った。
あれは母方の祖父の誕生祝いの席でのこと。父に連れられて、はじめてそのような華やかな場に出た私の前に、あの方は現れた。
最初にかけて頂いた言葉はなんだったのか。
「お噂どうりの美しい姫君だ」
たしか、そんな風な言葉だったと記憶している。
私はただ、あの方の琥珀色の瞳を見つめながら、ぼうっと立っていることしかできなかった。
それまでの私は、父の屋敷の奥で母と兄弟と使用人に囲まれて暮らしていた。
屋敷は広く、手入れされた庭にはとりどりの花が咲き乱れ、私は日がな一日、侍女を相手におしゃべりをしたり縫い物をしたり、とくにそれを不自由だとも思わずに過ごしていた。
やがてはふさわしい家柄の殿方の元へ嫁がなくてはならないと、このような家に生まれた娘として言い聞かされてはいたけれど、そのことについてもとくに深く考えたことはなかった。
おそらくは父と同じような地位と財力を持った夫を得て、その屋敷で同じように穏やかな日々を続けていくのだと思っていた。
未来の夫となる殿方のことを考えなかったわけではない。ただ、それを思い描こうにも、私が目にすることができる男性は、父と、時折母に連れられて訪れる宮の祖父と、幼い弟しかいなかった。屋敷の中で大勢働いているはず使用人は、私の視界から遠ざけられていた。
あの方が私の手をとり、甲に口づけられた時、初めて私は震えた。
美しい殿方だとは聞いていた。けれど、それがどのようなものなのか想像もしなかった。
瞳は極上の琥珀を嵌め込んだようだった。真っ直ぐな鼻梁やすらりとした頬の線は、ともすれば冷たい印象を与えるまでに整っていた。さらりとした前髪の隙間から紅玉髄の額飾りが見えた。そしてあの方はおだやかな表情で、世間知らずの私に話しかけた。
「あなたは───の花のようですね」
あの方の髪はまぶしい金の色だった。澄んだ瞳に見つめられて、私は上の空で繰り返した。
「なんでございましょう?」
あの方と私の身分の違いを思うと、それは無礼なことだったにもかかわらず、あの方は微笑まれた。
「ご存じないのですか?では、お屋敷に届けさせましょう」
私はその花を知っていた。知っていただけではなく、部屋の外に咲くその花を愛おしんで、母や気心の知れた侍女と一緒に花瓶に活けるためにそっと摘んだこともあった。
けれど、私はなにも応えられなかった。
あの方の瞳から目をそらせずに、ただはやる鼓動を抑えようと、胸の前で手をきつく握りしめていた。
それから、どう過ごしたのか記憶がない。屋敷に帰り着き、母とどのような言葉を交わしたのかすら覚えていない。おそらくあの方の言葉を胸に、呆然と数日を過ごしていたのだろう。
覚えているのは、ぼんやりと砂色の壁を眺めていた時に、侍女が慌ただしく駆け込んできたこと。私は椅子から立ち上がり、裾を掴むのさえもどかしく、広間に走り出た。
膝をついていたのは、あの方からの使者。
白い花弁の大輪の花が抱えるほどの花束にされていた。
「殿下から?」
私は花を胸に抱き取りながら、うわずった声で訊ねた。
「ぜひ、姫君にお会いしたいとおおせです」
私は花の香りを胸一杯に吸い込んだ。
あの方が私のために選んでくださった花は、濃厚なまでに香った。
上手く言葉が選べなくて、私はただうなずきながら、この花はこんな風だったかしらと思いめぐらせた。
私がいつも見ていたのは、透き通る花弁が重なる清純な白い花。あの方がよこして下さったのは、朝露をはじいてまるで内に光りを宿しているような純白の花。
いいえ、そうではないわ。
この花がこんなにも美しいのは、あの方が私のために選んでくださったからだわ。
私のまわりでは、侍女たちが興奮しながら早口に会話する。
きっと、姫さまを妃にとお望みですのよ。
いいえ、そんなことが。
奥さまは先帝陛下の姪御さまですもの、そのお嬢さまである姫さまは皇妃にもたてるご身分です。これこそふさわしい縁組みではありませんか。
私は侍女の言葉を否定しながらも、その考えに胸を詰まらせた。
もし、あの方が私をお望みならどうしよう。
私が、あの方の宮に迎えられたら?
周囲の予想はおおかた的中した。
ほどなくして、あの方は私のもとを訪ねてこられるようになった。
私はあの方に夢中になった。
毎日が熱に浮かされたようだった。
私は朝起きるとすぐにあの方を想い、あの方のために身につける物を選んだ。
部屋を整え、あの方はいついらっしゃるのかと部屋の中を落ち着かぬげに歩き回った。
侍女に表の様子を窺わせて、あの方の訪れを知ろうとした。
そして、あの方が部屋に入っておいでになると、部屋の中が光に満たされるのを感じた。
あの方と過ごす時間はなんて美しいのだろう。すべてが輝いて見える。
きっと、それはあの方が光を与えて下さるからだわ。
あの方の胸に頭をあずけ、あの方の声を聞きながら私は酔いしれた。
けれど、そんな日々が続くなかで、私の心は不安に苛まれるようになった。
あの方がいらっしゃらない時の噂を聞いた。
同じように、通う姫が他にもおいでだと。
そのいずれもが妃にふさわしい身分をお持ちなのだと。
私はぼんやりと寝台に腰掛け、室内を眺める。
どうして、ここはこんなに暗いのかしら。
もっと灯りを用意しなければ。
あの壁掛けはずいぶんと色あせている。これでは陰気に見えてしまう。
あの方の訪れるのにふさわしくない。
私は部屋のしつらえを変えるように命じ、またあの方を想う。
今日はどこへおいでなの?どうして、ここへはいらっしゃらないの?
いっそ、あの方を忘れてしまおうと思い始めると、きまってあの方はおいでになる。
「どうしました、姫?」
あの方が私の手を取る。私は涙ぐみながら、頭を振る。
「いいえ、なんでも」
この方に別れを告げることなどできない。
だって、こんなにも私に光を与えてくださるんですもの。
この方なしでは、生きていけない。
いつもの噂だと、最初は思った。
次はどんな姫君?
姫さまがお気になさるようなご身分の方ではないようですわ。
侍女の言葉に、無理矢理自分を安堵させる。心の底にかすかに引っかかるものを無理に押さえ込みながら。
こんどの姫は、宮に直接お迎えになったとか。
いいえ、それでもきっとこちらに来てくださるわ。
けれど、もう一つの噂が秘やかに街を走る。
夜歩きをすっかりおやめになったようだ。
どうやら、新しいご側室を溺愛されているらしい。
私は一人部屋に閉じこもる。
窓を閉めて、扉を閉ざして。
どうして、来てくださらないの?
こんなにもあなたを想っているのに。
あなたのいない部屋はこんなにも暗くて、恐ろしい。
そうして、私は気づく。
あの方は私に光を与えて下さったのではなく、私から光を奪い去ってしまったのだと。
これから、私はこの色あせた世界で生きていくことになるのだと。
沈んだ私を引き立てようと、父や母が八方に手を尽くす。
窓の外の花が植え替えられ、新しい調度が運び込まれる。
遠くに住む伯母がやってきて私に話しかける。
それらすべてから心を閉ざすように、黙り込む私のもとに、やがて楽士が連れてこられる。
最初、彼の奏でる音色は私の耳を素通りするだけだった。
楽士の髪が光を弾き、私はようやく顔をあげた。琥珀の瞳が、私を見つめていた。
あの方と、同じ髪と瞳の色。私から光を奪った残酷な方。
お願い、どうか私にもう一度光を返して。
祈りながら私は腕を伸ばした。
そして、私は光を取り戻す────。
「これを」
おずおずと差し出された枝に、思わず顔がほころぶ。
赤茶けた木肌と同じ色の蕾は、わずかに先端から花の色を覗かせている。
「まあ、これを私に?」
「見つけたから」
その人は少しはにかみながら笑った。
「お気に召すでしょうか?」
「ええ、とても」
私は枝を抱きしめる。爪の先ほど顔を覗かせただけの花はまだ香ることを知らない。
私は、一瞬遠い目をしたのだろうか。その人が首をかしげた。
慌てて、笑顔をつくろう。
「日当たりの良いところに挿しておきましょうね、きっとすぐに開きますわ」
「まだ咲いていない花など、失礼でしたね」
わずかに肩を落とした姿に、私は思わず声をあげて笑ってしまった。
「まあ殿下、殿下に花をいただいて喜ばない女など、このハットウサにはおりませんわ。
このことを知ったら、私はさぞやほかの姫君方にねたまれましょう」
彼はばつがわるそうに肩をすくめた。
「おからかいにならないでください。見つけた時はいい思いつきだと思ったけれど、いまは後悔してるんです」
「そんな・・・」
口を開きかけた私の後ろから勢いよく声がかかる。
「皇子!お待たせしてすみません!」
あの方と同じ金の髪が、私の目の前を過ぎる。
「馬の準備に手間取りまして」
「いいんだ、お母上とお話ししていたから」
金の髪の少年が振り返る。
「母上と?」
「お花をいただいたのよ?」
私が持ち上げて見せた枝を、金の髪を持つ私の息子は首をかしげて眺めた。
「花?どこにあるんです?」
「これから咲くのよ」
私は控えめな蕾を示した。
「うす紅色の花よ」
「うす紅色?」
息子はしげしげと固く閉じた蕾をのぞき込んだ。
「ボクにはかろうじて白にしか見えないけど・・・」
「カイル!」
良く通る声が叫んだ。
「もういいから、はやく行こう!君とは違って、お母上は良い目をお持ちなんだ!」
息子はいたずらっぽい顔で年下の皇子殿下を振り返った。
「はいはい、そう照れなくてもいいじゃないですか。皇子が女性に花を贈ったなんて誰にもいいませんから」
「カイルっ!!」
「気をつけて行ってくるのよ?」
皇子に続こうとした息子は、ふと気づいて足を止めて振り返る。
二歩で私に近づくと、私の身体に腕をまわして抱きついた。
「行って参ります。殿下のよりも綺麗なのを母上のために見つけてきますよ」
「まあ、カイルったら」
笑った私の身体はたちまち離されて、息子は腕を上げながら皇子の後を追った。
金の髪が揺れる。私に・・・光を取り戻してくれたあの色が。
私はテラスの下に騒ぎながら駆け下りた二人を見下ろした。
「行って参ります!」
「こんどはちゃんと咲いているのを見つけてきます!」
振り返ったふたりに手を振ってみせる。
光を弾く金の髪と、艶やかな黒い髪。
兄弟のようにじゃれあいながら馬に飛び乗る。
「本当に、今日は絶好の遠乗り日和ですね」
侍女が言う。
「ええ、本当に」
私は青く澄みわたった空を見上げる。
風はまだ冷たいけれど、たしかに春の気配を感じる。
腕の中の枝を抱きしめながら、私は冷たい空気を吸い込む。
きらきらとした、春の粒子が紛れ込んだ空気。
「なんて綺麗なんでしょう」
世界はこんなにも光に満ちている。
クリア?
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