その御手のうちに     お題:永遠



 青く澄んだ空に突き刺さるような樹影に違和感を感じて、ナキアは足を止めた。
 その木はちょうど中庭の中央にそびえるように立ち、 冬枯れの今は鋭利な枝の連なりを何本も高い空に広げていた。
 自分の感じたものの正体が分からずに、ナキアは眉を顰めた。
 乾いた枝をさらうようにして、冷たい風が吹きつける。
 重なる葉を夏のさなかに誇らしく翻していたその木は、今は困難な季節が通り過ぎてゆくのを辛抱強く耐えている。
「……そうか」
 無骨な枝が描く透かし模様を見上げていたナキアは、思わず声をあげた。
 北風にあおられ軋みをあげる木の形が、ほんのすこしだけ柔らかく感じられる。よく目をこらせば、乾ききって見える小枝のそこかしこに、小さなふくらみが張りついているのが分かった。
 新芽だ。
 まだ、固い樹皮に覆われてはいるけれど、沈黙に閉じこもって見えた木は、吹きつける寒風の中、静かに春の支度を整えていたのだ。
 思い返せば、朝方の身を切るような寒さが幾分ぬるんだような気がする。そして、回廊を渡る時に肌に受けとめる太陽の光も、暖かさを増したような。
 ナキアは無意識に振り返った。
 冬の終わりの日差しが、砂岩を敷き詰めた床の上を柔らかく照らしていた。
 表面を荒く整えた石畳を微細な影が彩っている。
 なぜそちらに目をやったのか分からないまま、ナキアはしばらくその模様を眺めていた。
 チチチと、鳥が鳴いた。
 もうすぐ、春だ。
 けれど、迫る春に対して抵抗を試みようとするように、温もりを奪う風が吹き抜ける。
 思わず肩をこごめたナキアの耳に、突然、声が甦った。
──── お風邪を召されます。
 声と同時に、肩口に掛けられた布の手触りまでも思い出す。
 そうだ、彼はいつも。
 冷えた自分の肩を抱きしめたまま、明るい床を眺める。
「……おまえは、いつもそこにいたな?」
 振り返れば、控える彼の姿が目に入った。すっぽりとフードの中に身体を隠しながら頭を垂れて。
 いや、振り返らずとも彼はそこにいた。彼が自分の後ろに控えていないなどと疑ったことすらなかった。
 ただ、ナキアはまっすぐに顔をあげたまま思いつくことを口にすれば良かった。
──── 御意。
 とも、
──── 承知いたしました。
 とも、彼は答えた。彼は従順だった。
 身体の内を焦がすような野心に、ナキアはいつも中空を睨み付けながら策略を巡らせた。
 顔をあげていないと、吹き出す感情の波に飲まれて立っていられなくなりそうだったから。
 顎をそらし宙に陥れようとする相手を思い描いていたその時、目の前にはどのような季節があったのだろう。
 ナキアは、ふいと視線を枝に戻した。
 寒さに耐えているだけに見えた木々は、人には感じ取れないほどの季節の変化を敏感に感じ取って、解放される春の期待に震えているように見える。
 知らないところで、確実に時は動いている。それを感じるのは、不快ではなかった。
「ウルヒよ────」
 息を継いだ。おかしなことに、常にそばにいたにもかかわらず、このようなことを口にするのは初めてだった。
「ごらん、あの枝はもう芽がついている。あとどれくらいで出てくるのかの」
 こんなことを訊ねたとしたら、彼はどう答えたのだろう。
 これまでのナキアは誰かを陥れることと、誰かから奪うことに必死で、庭の木々に心を砕く余裕などなかった。同じように、常に企みに荷担していたウルヒも───。
 いいや。
 頭を振る。そうではない。
 彼はいつだって見ていたはずだ。一歩下がったところから、ナキアの背を通り越して。
 葉を落とした木々と、青く晴れ渡った空と。時々連れ添って飛ぶ白い鳥たちを。
───── そうですね、多分あと十日もすれば、きっと。
 ウルヒの穏やかな声が告げる。
 彼なら答えたはずだ。
 彼の瞳は、悪事の最中でも今日の空のように澄みわたっていた。あの青い瞳で、静かにどれほどのものを眺めていたのだろう。
「これは花が咲くのかな?」
「黄色くて小さな花がびっしりと咲きますよ」
 返された声に、驚く。視界を見慣れた金の髪が横切る。
「ああ、もう新芽がついていますね」
 彼は弾んだ声で言うと、ナキアを振り返った。
「アレキサンドラが焼き菓子を作ったのです。ご一緒にどうか、と」
 強くまばたきを繰り返すと、ナキアは屈託のない息子の顔をしげしげと眺めた。
「花に詳しいのか?」
 自室に籠もって書物を読みふけっているか、早朝に天文博士のところに出かけたまま遅くまで帰ってこない息子の姿は知っている。けれど、彼が何を学ぼうとしていたのかには関心を持ったことなどなかった。
「正式に学んだのではないのですけど。でもウルヒがいろいろ教えてくれましたから」
 ジュダはそう言うと、枯葉をまとわりつかせている低い植え込みを指した。
「あれは赤や白の美しい花が咲くんですよね。母上はお好きでしたよね。いつも部屋に飾っておいででした」
 部屋になんの花を飾っていたのか記憶になかった。ナキアはハットウサの宮の自室を思い出そうとした。
「そう……だったか?」
「いつもウルヒに命じて枝を折らせておいでだったでしょう?」
 いくぶん愉快そうにジュダが答えた。この息子とも、このような話をするのは珍しいことだった。
「命じてなど……」
 言いかけて思いあたる。部屋のそこここに溢れるように飾られていた花。侍女が用意したものだと思って、心にも留めなかった。
 しかし、あれを摘んできていたのはウルヒだったのだ。それは彼の本来の職務ではない。
「ウルヒが、私のために?」
 ふと、日だまりの中、花を摘みながらジュダに微笑むウルヒが浮かんだ。
 この花はいつ咲くのか、いつ結実するのか。彼は穏やかな声で、瞳を輝かせる幼い少年に説明する。
 遠目には親子と見まごうほどよく似たふたりだ。もしかしたら、彼の本質もまた、この優しい息子と同じだったのかもしれない。
 彼が声を荒げるのを目にしたことなど無かった。あの世界が崩れたように感じた夜と、最後の別れを告げた時をのぞいては。
「おまえといつも、花の話を?」
「花だけじゃありませんよ、鳥の名前や、旅先で見かけた動物や。ああ、ウルヒは星にも詳しいんですよ、神官だから」
 楽しそうにジュダは言うと、回廊に上がった。
「さあアレキサンドラが待っています、冷めない内におはやく」
 遠ざかるジュダをぼんやりと見送りながらナキアは立ちつくした。
 ナキアのために、花を集めるウルヒ。ジュダに語り聞かせるウルヒ。
 あんなにも長い間そばにいたのに、そんな光景を目にしたことはなかった。
 彼はいつも鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた顔でたたずんでいた。
 もし彼がここにいれば、立っていたのだろう床の上を見つめる。
「おまえは、そんな話が好きだったのか?季節の移り変わりや、どの花が咲いたかや、そんなつまらぬ子どもっぽい話が」
 子どもっぽい話ならそれこそ父の王宮にいたころによくした。年の近い妹や弟たちと、どの花が咲いたか、どんな鳥を見かけたか。
 けれど、この国に送り込まれた瞬間から、ナキアの子どもの時間は終わったのだ。
 あとは呪詛と報復が日常になった。
 思い及ぶのは人の足もとをさらうはかりごとばかり。
 ウルヒはただ静かに、そばに控えていた。
「おまえは、私とそんな話がしたかったのか?」
 移ろいゆく季節を眺めながら、美しい自然の変化に喜びの声をあげる。ふたりで同じ時間を重ねながら。
──── ナキアさま、ほらもうすぐ芽が出ます。春はすぐです。この寒さももう少しの辛抱です。
──── この花をお部屋にお持ちしましょう。よい香りがしますよ。
 人の血を流すことよりなにより、それらの言葉はどれだけウルヒに似合っただろう。
 まぶたを閉じる。訪れた闇の向こうに、ウルヒの気配はない。
 ナキアに声をかけられるのを待って、いつも彼が控えていた場所。そこには、冬の弱い光がさし、彼がいないことを思い知らせるかのように風が吹き抜ける。
「どうして、言わなかった?」
 言ってくれれば、自分は応えたのだろうか。
 結局はすべてを失うことになった、野心を捨てて。
「ウルヒよ」
──── はい、こちらに。
 ただ彼は、なにも語らずにナキアの言葉を待っていた。彼女のために、彼女の望むように。
 突然に押し寄せてくる喪失感に、ナキアは震えた。
 口にするより早く差し出される肩掛けも、風から守るように立つ広い肩もここにはない。
 おそるおそる開いた視界はゆがんでいた。ナキアの喉から押し潰された呻きが漏れた。
 ウルヒのいない床の上に膝を着くと、こみ上げてくるものに身体を半分に折った。
 頬が熱く濡れはじめる。ざらついた床に爪を立てる。
 あんなにもそばにいたのに。もう、どこにもいない。


 彼を失ってから、初めて、ナキアは声をあげて泣いた。
 

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