楽園   お題:棘



 その男は小憎らしいくらいに整った顔をあげる。額の上にはとりどりの宝石で飾り立てられた冠が輝いている。
 繰り返される歓呼の言葉を耳にすると、ふと厳粛だった面差しがほころぶ。視線がゆるやかに流れ、傍らの人物にとまる。
 彼のそばの彼女は、視線に気づき、わずかに身体を彼の方に傾ける。寄り添う二人の姿に、見上げる民衆はよりいっそうの歓声を上げる。


 そうして、二人は帝国に最大の繁栄をもたらしたのだと────いまいましい光景だ。
 見もしていないのに、まるでその場にいたかのように鮮やかに思い浮かべることが出来るのは、流れてきた吟遊詩人どもが繰り返し甘ったるい声で歌うからだ。
「────ですから……王?」
 呼びかけに、ふけっていた思索から引き離されると彼は視線を戻した。目の前には、先ほどから石版を読み上げていた生真面目な顔がある。
 せっかくの労力を意に介していない彼のことを責めるというよりは、むしろ気遣わしげだ。
「……ああ、分かってる。市のまわりには物乞いはいないってことだな?」
 彼は、落胆ともとれるため息をつく。
「ええ、人の出も多くて、民は満ち足りているようです……やはりお疲れですか、父上?」
 無駄のないしなやかな動作、衰えを見せない鍛えられた身体。瞳は挑戦的な光をたたえ、時には辛辣になる口調。彼の年齢を意識する者がどれほどいるだろう。
 だからこそ、彼の息子は父親の心晴れやらぬ様子に不安を抱いたらしい。
「疲れて……いるな、確かに。ここんところ、座りっぱなしで運動不足だ」
 彼は座り心地の悪い椅子の上で身体を伸ばした。
 いつかはこれに座ってやろうと思っていた。だが、実際に腰を下ろしてみればあまり居心地の良いものでもない。
 どうせ、そうだろうとは思っていたが。
 この椅子に座ることは、手段ではあれ、目標ではなかった。
 彼は窓の外にまた視線を移した。
 高台にあるこの部屋からは、濃い緑色をしたナツメヤシの林の連なりと、その向こうには照りつける日差しに水面をきらめかせている黒々とした大河が望めた。
 河の上にはひっきりなしに白い帆を揚げた小舟が行き交っている。
 その向こうにはこちらと同じような緑の帯、そして遠く霞む赤茶けた砂漠。
 すべてが、彼のものだ。
「ま、疲れるのも悪くねぇな。やるだけやった結果がこれだ」
 言いながら、目を細める。
「この国の繁栄は、みな父上によってもたらされたのです」
 幾分誇らしげに、彼の息子がうなずいた。
 彼────この国の施政者であるラムセスは、いまだ読み上げきれていない報告の山を見た。誰に似たのか、几帳面な息子は、視察に出かけた先でこれだけの記録を残したのだ。
「おべんちゃらや追従は、おまえでなくとも口にするヤツはいくらでもいる。オレがおまえを駆けずりまわせているのは、事実が知りたいからだ」
 彼の国が正しく運営されているのか。彼の民が不自由なく暮らしているのか。
 そういう国を作りたいと願ったからこそ、彼は王になった。
 だから、たとえ椅子が固かろうが、むやみに出歩けなくなろうが、満足している───はずだった。
「私が見聞きしたことはすべて正しく父上にご報告申し上げるつもりです」
「で、いい女はいたか?」
「は?」
 ラムセスは、突然の質問に面食らったままの息子から、部屋の隅にいるもう一人の人物に視線を移す。
「どうだ、ウセル?……娼館に顔を出したんじゃないのか?」
 木製の粗末な腰掛けで所在なげにつま先を眺めていたのは、若いながらどこかしらふてぶてしい風貌の青年だった。
 彼は物怖じせずに、この国の最高権力者である祖父を見返した。
 奔放な良家の跡取り息子だった彼は、不自由な王子に祭り上げられたことに不満顔だ。後学のためにと、父親に無理矢理連れられての視察旅行の間にこそこそと羽根を伸ばそうとしていても不思議ではない。
「……いねえよ、年寄りばっかり」
 祖父の眼光に物怖じせずに言い返す。
「そうか、それは良かった」
 むっとした孫に、ラムセスはにやりと笑って見せた。
「娼館に若い娘がいないということは、食い詰めて娘を売る親がいないってことだ」
「なるほど、そうですか!」
 息子が感心してなんどもうなずく。
「さすが父上ですね。たしかに、農村部の民も豊かに暮らしております。どの家も牛を飼い……」
 ラムセスは、まだ頬をふくらませたままの孫を眺める。
 若い頃の彼によく似た孫息子は、どうやら権力にはさほど執着はないらしい。身分や、家柄。かつてのラムセス自身もそのような執着は持っていなかった。ただ、束縛されることを嫌いふらりとさまよい歩いた街角や旅先で目にした貧しさに、どうしようもない憤りを感じただけのことだ。
「……エジプトは父上のもとでよりいっそう繁栄することでしょう。父上はエジプト史上並ぶ者のないファラオとして讃えられるはずです」
 及ばずながら、その手伝いを、と目を輝かせた息子は言う。
 ラムセスは、理想よりは義務感に燃えている息子を眺める。
 出来た息子だ、そう思う。彼はラムセスの右手になって働くだろう。
 孫だって権力に溺れて腐っていくような馬鹿ではないだろう。
 自分は恵まれている。
 けれど。



 二人の人物は並んで手を挙げる。二つの手のひらが揺れるたびにどよめきが起こる。
 神はその国に女神を賜り、国は賢い皇帝と美しい女神の手によって輝かしい時代を迎えたのだと。
 その国では誰もが満ち足りて飢えることがなかったと。
 そう遠くもない昔のはずなのに、すでに伝説となって語り継がれる。



「……讃えられる、か」
 先王は晩年にはすでに全権をラムセスに委譲していた。『おまえにすべて任せる』、そう言ったのだ。
『おまえなら、後の人々に賞賛される功績を残すはずだ』とも、そして喋るのも大儀になった肩で息をついた。
『ワシは、そんなおまえを後継者に指名したことで評価されるかな』
 先王は至高の地位にいながら、他人に評価されることを望んでいた。ある意味、善良すぎる俗物だった。
 先王から地位を譲り受けてから、貧困も戦乱も追いやった。祖国は、今まさにラムセスの望んだ姿で輝いている。
 おそらく、彼もまた伝説となりうる。
 吟遊詩人が、貴族の身分から軍功を得て身をおこした彼を歌う。
 彼の左右で違う瞳の色や、遠く異国の地を駆けた戦いの場面を。
「……別に伝説になんかなりたかねぇな」
 大切なのは生きている現在の時間のことだ。生きている間にどう成果を見せることができたかだ。
 彼の国が彼の目の前で輝いていること。民が安心して暮らしていけること。
 ずっと、そんな国を作りたかった。


 ラムセスは目をすがめる。
 見てもいないはずの光景が浮かぶ。伝説になった皇帝と皇妃。どこよりもすばらしい国を築き上げた二人。
 けれど、彼だって負けてはいないはずだ。
 彼らに問いたい。問いながら胸を張りたい。
 どうだ、オレの国は?
 言ったとおりになっただろう?
 あんたたちの国と、オレの国と。良い勝負だと思わないか?
 伝説の皇帝と皇妃が微笑む。


「父上?」
「……続けてくれ」
 再び、単調な声が流れ始める。
 読み上げられる報告に耳を傾けるふりをして、ラムセスは静かに唇を噛んだ。

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