それは暗闇にさす一筋の光に似て  お題:迷い子



「……陛下」
 左後ろからかけられた声に、カイルは言いかけた次の言葉を飲んだ。
 目の前には、青ざめ萎縮した、この街の知事。
 肩であらく息をつくと、握りしめていた拳をようやく開いた。指がそれと知れぬぐらいに震えている。
「あのぅ……」
 脅えながら、知事はか細い声で訊ねる。
「兵を指揮するのは……」
「いや、いい」
 熱した額に指をあてて頭を振る。触れる指先は同じ身体ではないように冷たかった。
「この雨では、かえって兵達が危ない。今は装備を身につけて雨がやみしだい出発できるように備えさせろ」
 轟音をあげて降りそそぐ窓の外に目をやる。広くとられた窓からは白い瀑布が見えるだけだ。先ほど、ここにいて感じられた振動はもしかしたらこの激しい水音ではなかったのかと、ひそかに願う。
 しかし、知事はあれを地滑りの音だと説明したのだ。さほど遠くない山の、谷間を縫う道で土砂崩れがあったのだろう、と。
 這いつくばるにようによろめいて出て行く知事を見送ると、カイルは激しくうずき始めたこめかみを押さえた。
「陛下、おそれながら」
 控えていたキックリが口を切る。
「ユーリさまはこの雨ですから、どこかでお休みのはずです。無理に行軍されるようなことは」
「分かっている」
 言いながら、手近のカップを引きよせる。口をつけるとワインはすでに生ぬるくなっていた。
「あれは、そんなにおろかではない」
 自分に言い聞かせるように呟く。腹部に、覚えのある痛みがよみがえる。
 分かっていると言いながら、本当に分かっていることはごくわずかだ。
 カイルがこの街の城門を通過した時、すでに数日前に南部の視察を終えて到着しているはずのユーリの軍の姿がなかったこと。降り始めた雨が、さほど時も経ずに豪雨に変わったこと。不安を抱えながらも知事の挨拶を受けていたカイルの耳に、地を揺るがす音が響いてきたこと。
 街道沿いの崖が崩れたのだろうと、知事は心配そうに眉をひそめた。
 あの道は南部から続きますのに。山を越える唯一の道なのに地盤が弱いのでよく崩れるのです。
 知事の言葉に、反射的に立ち上がった。
 激昂して、兵をまとめよと叫んだ。
 危険だと止めようとする知事を、憤怒の表情でねめつけた。
 冷静になる必要がある。
 雨の中、濁流に巻き込まれるおそれのある低地に、ユーリが軍をとどめおくはずがない。
 そう思うのは、己の願望なのか。
 カイルは痛み始めた胃のあたりに手のひらをあてる。意識しないと、呼吸するのも忘れてしまいそうになる。
「雨はいつやむ?」
 こんなことを訊ねても正確な答えなどないのは分かっている。けれど、訊ねてしまう。
「一時的なものだと思います」
 律儀に頭を下げたキックリは、いたわりの視線でカイルを見た。
 恐怖に顔を強張らせた主人を、せめても安心させようとする。
「陛下、ユーリさまはまだ南部の街にいらっしゃるのかも」
「だと、いいがな」
 椅子の背に身体を預けて目を閉じる。痛みはきりきりと強くなってきていた。
 雨がやまない限りは、山にはいるのは無駄だと分かっている。ぬかるんだ地面は兵の足を鈍らせ、降りしきる雨は視界を奪う。のみならず、あらたに起こるかも知れない崖崩れが、救援の兵をさらなる被害者にするかもしれない。
 すぐにも飛んでいきたい衝動を抑えつけながらカイルは歯を食いしばった。
 ユーリはいまどこにいる?
 落ち着かなくては。
 どうして、とうにこの街に着いていない?
 なにか、事故があったのか?
 落ち着け、皇帝が動揺してはならない。
 急に強くなった雨だ、なんの心構えも出来ていなかったのかもしれない。
 いや、ユーリなら素早く行動できるだろう。
 ぐるぐると脳裏を駆けめぐる思いに揺さぶられて、嘔吐しそうになりながらきつく目を閉じる。
 浮かぶのは、ハットウサを発つ前に、広げた地図にかがみ込んでいたユーリの姿。
 通る道筋を指でたどりながら、ちょうどこの街の上で大きく円を描いた。
 しばらく離ればなれだけど、ここで会えるね。
 そう言って、はにかんだ笑顔を浮かべた。
 なぜ、別行動をとったのだろう。
 長く首都をあけるわけにはいかないとはいえ、手分けして回ろうと言い出したユーリになぜうなずいたのだろう。
「陛下」
 気遣わしげなキックリの声に、そろそろと目を開いた。
「大丈夫だ」
 大丈夫なはずがない。頭を上げていることが耐えられないほどに、世界が揺れ始める。



 泥にまみれた伝令が辿り着いたのは明け方だった。
 まんじりともせずに夜の明けるのを待っていたカイルは、目通りを許すまでもなく、兵の前に走り出た。
「救援と物資を要請します」
「ユーリはどうした!?」
「陣頭指揮をとっておられます」
 深々と頭を下げた伝令の前で、カイルは崩れそうになる膝を必死に叱咤した。



 腕に抱き取ると、ため息が漏れた。乾いて白くなった泥を頬にこびりつかせたまま、ユーリはカイルの首に腕をまわした。
「どうなるかと思っちゃった」
 軽い口調とは裏腹に疲労がにじむ。ユーリの気分と同じように衣装はぐっしょり濡れている。
 数日、山中をさまよったのだと言う。
「食料を多めに持ってたからよかったけど。山の中は星も見えなくって困ったの」
 ユーリの軍は数日前に行き止まりになっていた街道を迂回して山中に迷い込んだ。とりあえず平地を目指すことにして、山を越えた。降り出した雨の中、ようやく森を抜け出すと、目の前に豪雨で流されようとする村が見えたのだと。
 そう語ってから、弱々しい笑顔を浮かべた。
「なんとか、全員助けられたよ」
 強行軍とも言える山中徘徊の後の、救援活動だ。降りしきる豪雨の中、土嚢を積み上げる一方で住民を高台へと誘導する。
 カイルは無言で腕の中の身体を抱きしめた。明かりのない山中で、どれほど恐ろしかっただろう。脅える兵の前で、不安な顔も出来なかったに違いない。
 ねぎらいの言葉をかけたくても、こみ上げてくる想いに喉を塞がれて、ただ腕に力を込めるだけになる。けれど想いは伝わったのだろう。
 ユーリは瞳を潤ませると、カイルの頬に頬をすり寄せた。
「……すごく怖かった」
 私もだ。
 答える代わりに、唇を寄せてまぶたを伏せる。
 すぐそばに、暖かい息づかい。
 ユーリが必死に目をこらしていた暗闇は、あの時たしかにカイルの前にもあった。

 二人で固く抱き合っていれば、こうして目を閉じても闇が訪れることなどない。
 

BACK    NEXT    TOP

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送