ミルク  お題:おかえり



 世間が思うほど、落ち込んではいない。
 ましてや、同情されるほど惨めな気分でもなし。むしろ、遠巻きに投げつけられる痛ましげな視線が鬱陶しくもあり。
 とりあえずはなんでもない顔で一日を過ごす。
 一日の終わりには、がんばった自分へのねぎらいに強い酒。時々────いや、頻繁に肌の熱を分け与えてくれる女。
 そうして、ごくたまに重い足でたどり着く。
「なんだ、出迎えもなしか」
 舌打ちががらんとした列柱の間に響く。
 この家の主人が帰ったというのに、使用人の一人でも出迎えるでもなく、明かりまで落とされている。
 この場所に足を踏み入れたのがかれこれ一月も前なのだから仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。
 いつ戻るか知れない主人のために夜通し起きて明かりをともすのを、先代から仕える家令は無駄だと判断したのだろう。あるいは、寝不足の目をしばたかせる使用人に、優しいこの家の女主人である母が待つ必要はないと許したのか。
 どちらにしても、旧家の権勢を見せつけるだだっぴろい屋敷の中は静まりかえっている。
 ラムセスは踏み込んだ玄関でぼんやりと奥に続く暗闇を眺めた。
 戦いの野営と、王宮での事務処理のための泊まり込みと、世のご婦人が眉をひそめる社交場での休息と。帰ってこないための理由ならいくらでもあった。
 けれど、この家の当主としてまったく寄りつかないわけにもいかない。
 老いた母を放っておくわけにもゆかず、片づいていない姉妹を放置するわけにもゆかず。
 一家の長としての義務が、ようやく彼をここに押しやった。
「……それが、出迎えもなしかよ」
 拗ねているのが自分でも分かる。帰ると、王宮を出る前に伝令を走らせておけばよかったのかも知れない。けれど、うつらうつらと船をこいでいた門衛をたたき起こす瞬間まで、本当にここに戻ってくるのかどうかラムセス自身にも予想できなかった。
 いっそ、大声を上げて家中をたたき起こし、主に対する非礼をなじろうか?
 そう思いついてから苦笑する。愚かな暴君のような振る舞いだ。
 あきらめて闇に踏み込む。
 明かりなど無くても、生まれ育った屋敷の様子は分かる。高い柱の並ぶ正面の入り口を抜け、四角く切り取られた入り口をくぐったら、右手には睡蓮の池、左手には広間。突き当たりに食事室、そこから右に折れると客間が並び、さらに廊下は左右に分かれる。
 使用人の部屋に続く右手ではなく、左手の装飾された扉を開けば、そこから先がこの家のプライベートスペース。頻繁に婚家から戻ってくる姉妹のための部屋を通り過ぎて正面がラムセスの部屋。さらに左に折れた場所に・・・
 閉ざされた扉が浮かび上がる。
「……だからか」
 声に出してみて、自分でも驚くほどそれが力無いことを知る。
 繊細な色遣いの花模様で飾られたその扉はいつだって閉ざされて沈黙していた。なにを期待していたわけでもない。
 ただ、彼は当然のようにそれを押し開いたし、しつらえた調度の趣味の良さに、密かに満足していたりもした。
 どうだ、これは?
 おそらく彼女の耳にしたこともないはずの名工の名前をあげ連ねて、いつかはそれを手に入れるのにどれだけ苦労したか解説してやろうとも思っていた。
 子供っぽい虚栄心かもしれない。けれど、そう振る舞うことがたまらなく誇らしいだろうことは分かっていた。
 なにひとつ惜しみはしないのだと、形からでも伝えることができたら。
────誰が、世間が思うほどには、落ち込んでいないって?
 ボロボロじゃないか。
 自嘲する。
 あの扉の向こうに、贅をこらした家具と、それらを覆う空虚な闇が広がるのを見たくないだけだ。
 よう、帰ったぞ。
 つんとそらされた横顔。
 仕方がないなと笑いながら手を伸ばす。
 おかえり、の言葉は一度もなかった。けれど、満たされるものは確かにあった。
 伸ばした腕を嫌そうに振り払われることも、何の気配もない暗闇よりはよほどいい。
 やはり戻るべきではなかった。苦い後悔が胸を浸す。このまま、きびすを返してさんざめく酒場の女たちに慰めを求めようか。それとも、強い酒でもあおって、堅い寝台に体を丸めようか。
 ラムセスは逡巡し、立ち止まる。その時。
「おかえりなさい」
 はじかれたように振り向いた背後に、肩掛けを巻き付けた細い姿。
 ラムセスはゆるゆると肩の力を抜いた。
「なんだ、起きてたのか、ネフェルト?」
「起きたのよ」
 自分と同じ色の妹の髪が月明かりをはじく。年若い妹は大げさに肩をすくめてみせる。
「滅多にお帰りにならない不良当主さまが、お戻りになったみたいだから」
「忙しかったんだよっ」
 なにを言い訳しているのだろう。そう思うラムセスの前で妹は抱えていた水差しを持ち上げた。
「はいはい、おつとめご苦労様。これでも飲んで休んでね?・・・それから」
 気が利くな、と腕を出したラムセスの前で、妹は声を低めてささやいた。
「あの部屋、片づけておいたし」
 あの部屋と言われて思い浮かぶのは。
 ラムセスはゆっくり首を傾けた。
 一つ一つ吟味して彼女のために選んだ家具。そのどれもが空回りの想いを残すようで。
 それをすべてどこかにやってしまったと言うのだろうか。主の許可も得ずに?
 たしかに、ここのところ主人としてのつとめを放棄してはいたが。
「・・・まったく、おまえは気が利きすぎる」
 この妹がそうせざるを得ないほど、自分は痛々しかったのだろうか。
 ふふ、と笑い声がする。ふと気づけば、腕の中の水差しはほのかに暖かい。
 のぞき込んだラムセスは顔をしかめた。
「なんだ、これは?酒じゃなくて牛乳じゃないか」
「兄さまに必要なのは」
 心なしか胸を張って、妹は指を振った。
「ごまかすためのお酒じゃなくて、元気になるためのミルクじゃないかしら?」
 まじまじと見つめ返した妹の表情は、不思議なことに皮肉な言葉とは裏腹にひどく優しかった。
 それはあおる酒よりも胸を暖かくし、一夜限りの女よりも慈愛に満ちている。
 だとすれば、自分はずいぶんと見当はずれの遠回りをしていたことになる。
 あの閉ざされた扉よりも、もっと得難いものがここにあったというのに。
 そんなことに考えも及ばないほど弱っていたのか。
「そうか、もらっておく」
 言いながら、背を向ける。同情からではない。だから疎ましくはない。
 ラムセスの口元に、微笑がのぼる。
「ああ、そうだ……」
 数歩進んで足を止める。背中越しにまだ見つめているのだろう妹に言葉をかける。
「明日からは出迎えるように言っておけ……ちゃんと帰ってくるから」
 わかったわ、という声が聞こえた気がする。
 ラムセスは自分でも不思議なぐらいに軽やかに、腕の水差しを抱えなおした。 

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