陽の翳る午後
ピンポ〜ン♪
軽やかに響いたチャイムの音に夕梨は動かしていた手を止めた。
包丁を置き、タオルで手を拭いながら無意識に壁に掛かった時計を見上げる。
4時を少し回ったところだった。
娘が帰ってくる時間にはまだ早い。
「はあい」
スリッパの音をぱたぱたさせながら玄関に向かう。
なにか今日届くようなものがあったのかしら、と思いながら。
キッチンから玄関まではほんの5,6歩。
サンダルに足を入れると、鍵をまわす。
スコープで確かめることもしないまま、ドアを開いた。
一瞬、逆光に目を細めた。
背の高い姿が光の中に立っていた。
強さを増した西日に、髪が金色に輝いて見えた。
「・・・あ・・?」
片手をノブにかけたまま、夕梨は立ちつくした。
表情も見えないまま、その姿は頭を下げる。
「こんにちは」
何度か目をしばたかせると、ようやく彼が誰なのかに思い当たって、夕梨は笑顔を浮かべた。
「カイル・・・・くんね?」
夫が午後から休みを取って空港に迎えに行っているはずだったがと、肩越しにその姿を探す。
夕暮れ時の長い影を落としながら、住宅街の中を通る道は人通りがない。
「主人とは会わなかったの?」
朝、出際に何度も待ち合わせを復唱していたはずだった。
「上手く見つけられなくて・・・住所を知っていたので来たのですけど、いけなかったでしょうか?」
この年頃の少年には似合わない言葉遣いに、夕梨はまた笑顔を浮かべた。
「ううん、無事についたからいいの。パパ・・・あの人もそのうち連絡してくるでしょうから」
カイルが大きなスポーツバッグを肩から下げたままなのに気付いて慌てて身体をズラした。
「ごめんなさい、気がつかなくて。疲れたでしょう、入って?」
長時間のフライトを終えたばかりのはずだった。
素直に続いてくる上がりかまちにスリッパを並べる。
「靴は脱いでね?」
この義理の甥になる少年がアメリカ育ちであることに思い当たって付け加える。
西洋風の洒落た外観がウリの住宅だったが、上背のある少年が立つと天井が低く感じられた。
「あ、荷物はこっちに・・」
荷物を受け取ろうとすると、カイルは遮った。
「重いですから」
「そ、そう?」
一瞬指先が当たって、夕梨は伸ばした手を引っ込めた。
おぼろげな記憶の中にあった少年は膝を着いてもまだ小さかったのに、いま触れた少年の手は大きくて長い指を持っていた。
背だけがするすると伸びて、身体の発育が追いつかない。
この時期の特有のアンバランスさが、かえって少年の表情を大人びさせている。
あれからもう随分経っているんだもの。
当然のことだと思いながらも、なにか違和感を感じて夕梨は開きっぱなしのリビングへの戸口を指した。
「とりあえず、あっちへ、ね?なにか飲むでしょう?夕食の準備をしていたんだけど。
シチューって好きかしら?もうすぐ娘も帰ってくるし。部活でいつもこんな時間になるのよ。今中学生でね」
なにを続けざまに喋っているのだろう、と自分でも思う。
ほとんど初対面と言っても良い少年が黙り込んでいるので間が持たないのだった。
「優美って名前なの、会うのは初めてね?」
示されるままにソファに腰を下ろしたカイルはゆっくりと室内を見まわし、目の前の夕梨に視線を戻した。
薄い色の瞳と目があったとたんに、夕梨は言いかけた言葉を飲み込んだ。
薄茶の澄んだ瞳が夕梨の姿を映しこんでいた。
これはきっと琥珀色って言うのね。
ぼんやりとそう思う。
そういえば少年に初めて会った時、その瞳の美しさに息を飲んだのだった。
あれは、結婚式の日だった。
人生で最良の日。自分がもっとも美しかった日。
「・・・考えてみれば、叔母さんとも一度しか会ってないわね」
叔母さんと言うと、なぜか胸が小さく痛んだ。
優美が生まれて、いつの間にかそう呼ばれることに慣れていたはずなのに。
この少年の呼び覚ます記憶が、感傷的すぎるからかも知れない。
ふわり、と少年が笑った。
「覚えてますよ」
魅せられるような笑顔だった。
端正な顔が穏やかにほころぶ。
「すごく綺麗な人だと思ったから」
夕梨は思わず頬が赤らむのを感じた。
そういえば、少年の笑顔を目にするのは初めてかも知れなかった。
雑誌の写真から抜け出してきたような綺麗な子どもは、終始怒った表情をしていたから。
「覚えてくれて嬉しいわ・・・もうすっかりおばさんになっちゃったけどね」
出来るだけ明るく言うと、キッチンのカウンターを回った。
「コーヒーでいいかしら?」
頷いたのを確認して、冷蔵庫の扉を開いた。
冷気が頬を撫でて、顔が赤いのに気付かれたかしらと思う。
「カイル・・くん・・・ねえ、あの時機嫌悪かったよの?覚えてないでしょうけど」
あの日のことは鮮やかに思い出される。
幼いカイル少年は、緊張していたのだ。
「『もっと好きな人ができるかも知れない』」
豆の入った缶に伸ばされていた手が止まった。
幼い子どもの挑みかかる視線がよみがえる。
「そうだったわね・・」
「できましたか、そんな人?」
からかわれてるんだわ、こんな子どもに。
あの時はあんなに可愛かったのに。
夕梨は頭を振ると立ち上がった。
カウンター越しに目があった。
からかいなど微塵も感じられない真面目な顔があった。
どうしてこんなに大人びた顔をしているのだろう。
やはり外国の血が混じっているからなのかしら。
「やぁねえ、大人をすぐからかう・・・ないわよ、そんなこと」
コーヒーメーカーを引き寄せる手が震えた。
二回りも違うはずの子ども相手に、なにを脅えているのだろう。
「これからもないわよ、こんなおばさんだもの」
からからと音を立てて豆が落ちてゆく。
コーヒーを入れることに集中しているフリをする。
「そうは思わないけど」
声が近づいた気がした。
彼が立ち上がったのだ、と思う。
浄水器のコックにかけた手を緊張させながら、明るく声を出す。
「カイルくんの部屋ね、和室なの。使いにくいと思うけど・・・空いている部屋には家具がないから。なんなら日曜にベッドを買いに行っても・・・」
カウンターに肘がつかれる。
前髪に息がかかった気がした。
「叔母さんって呼びにくいな・・・名前を呼んでもいい?」
「え?」
思わず伏せていた顔をあげて、再び視線がぶつかった。
少年は、不可解なままの笑顔を浮かべた。
「夕梨・・・さん、って」
至近距離の顔から目が離せない。
「そ・・」
「ただいまぁっ!!」
玄関のドアが開いた。
「あっ、なにこの靴!ママぁ、もうお兄ちゃん来てるの!?」
賑やかに騒ぎながら、娘の優美が姿を現した。
カイルが振り返った。
視線の呪縛から解かれたことに秘かに胸をなで下ろしながら、スイッチを入れる。
「優美、ちゃんとご挨拶しなさい」
年上の従兄の姿を認めて娘の頬が染まるのを見逃さない。
「は、初めまして、優美です!」
ぴょこんと頭を下げたのは、母親の目から見ても年相応で可愛いらしかった。
中学校の制服は、チェックのスカートが規定よりも短くなっている。
いつも父親から注意されながらそれを聞き流している優美は、スカートの裾をもじもじと引っぱった。
「カイルです」
優しい声が答えている。
「優美、カイルくんを和室に案内して。それと着替えたら手伝ってね」
手元に視線を落としながら夕梨は言った。
「はぁい!」
いつもなら文句を言うところだが、弾むようにソファに走り寄ると置かれたバッグと持ち上げる。
「わっ重い!なに入ってんのこれ?」
「女の子には重いよ」
笑い声混じりにカイルが答えている。
足音が遠ざかるのを感じて、夕梨はようやく息を吐いた。
コーヒーメーカーが小さな音を立て始める。
作りかけの夕食に気がついて、包丁を手にする。
重い疲れが身体の底に沈殿している。
いったい、なにが起こったのだろう。
馬鹿げている。
あんな少年に・・・一瞬でもときめくなんて。
ときめく、という言葉を思い浮かべて夕梨は手を止めた。
そう、あれはときめきだった。
あの琥珀色の瞳に見つめられた時に、胸を息苦しくしたのは。
随分長い間忘れていた感覚だった。
最後にときめいたのはいつだっただろう。
「ねえ、ママ!」
いつのまにか忍び寄ってきた優美が身体をすり寄せた。
「なあに、優美」
娘の頬が柔らかな産毛に縁取られているのをみて夕梨は無理に微笑んだ。
光を弾く水蜜桃の肌。
「カイルって、かっこいいねえ!」
なんのてらいもなく言ってのける。
指を組み合わせて、頬を紅潮させながら優美は瞳をきらめかせた。
「従兄弟どうしって結婚できるんだよね」
瞬間、夕梨は娘を羨ましいと思った。
胸に抱く感情をなんの打算もなく口に出来ることを。
先にあるかもしれない障害を予想もせずに行動できることを。
「・・・パパには内緒ね」
「うん、ないしょ、ないしょ!」
それが若さというものだろうか。
はしゃぐ娘を見ながら、夕梨は初めて胸に重い疼きを感じた。
幸せに歳月を重ねて来たと思っていた。
けれど、刻一刻と失っていくものを知った時、恐怖に襲われた。
このまま、老いていくのだろうか。
手遅れになってしまう・・・でも、いったい何に対して?
自分で自分が分からなかった。
唇を噛みしめながら、夕梨はゆっくりと包丁を動かし始めた。
(the last time めぐり逢えたら 第五話)
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