酔いどれバナナ共同作品

皇帝夫婦・愛と涙の治療日記

1 千代子さん


起:コトの発端

 「皇妃さま、近頃お顔の色がよろしいようですけれど、何かよいことでもございましたの?」
 朝食のとき、ふいにハディが言った。
 「そう?」
 ユーリは、デイルとピアの世話で忙しいふりをして聞き流してみせたけれど、本当はおかしくてたまらず、咳をするふりをしてごまかした。
 「ねぇ、母さま、今日は中庭の池で遊んでもいいでしょ?」
 デイルは食事そっちの気でいろいろと注文してくる。
 「そのまえに剣の練習があるでしょう。終わってからね」
 六歳になったデイルは遊びたい盛りなもので、三歳のピアを連れまわして王宮中を走り回っている。
 「じゃあ、練習が始まるまで遊んできてもいいでしょ!?」
 了解の返事も聞く間すら惜しい、といった具合に、幼い二人の暴君はすでに駆け出していってしまった。
 「殿下方もいたずらなお年頃ですから、めったなことをなさらないとよろしいのですけど」
 ハディが言う。
 めったなこととは、デイルとピアが遊んで調子に乗りすぎて、些細なことがいつも大事になってしまうからである。
 この前など、度胸試しとか言い出して、側の者の目をくらまして池の中でどちらが長く潜っていられるかと二人一緒になって潜ってしまい、耐えられず上がってきたピアに対してデイルはなかなか顔を出さず、ようやく側近が見つけ出して救い上げたとき、デイルは気を失っていたという。
 ちょうど両親とも政務中のことで、知らせを聞いて急いでデイルの部屋に行くまでの不安だったこと。
 「死ぬところだったんだぞ!?」
 安心して、それでも父親としての姿勢は見せねばならぬカイルがそう言ったとき、デイルは、
 「だってお魚はずっと水の中にいるじゃない」
 と言っておかしそうに笑った。
 それから、王宮内では警備がどこからでも幼子を見張れるよう、警護隊がさらに固くなり、おかげで大事に至ることはなくなった。
 「皇妃さま、今朝も陛下はお目覚めが遅うございますね」
 皇子たちが飛び出していき、ユーリ一人になったためか、ハディがカイルの話を口にした。
 「…そうね」
 カイルの朝寝は、ここのところ毎日だった。
 皆は影で言ってるらしい。
『近頃は皇妃が寝台での権利を持っている』
初めてリュイからその噂を聞いたとき、ユーリはそのとたんに大笑いしてしまった。
皇帝が朝遅く、その分皇妃が生き生きしてるからそんな噂が流れたらしい。
カイルの朝寝の原因はそんなことではないのだけれけど、ユーリは何も言わなかった。
言えない。言えるわけがない。
――だって、息子に…その…、…ジャマされただなんて、言えないでしょう。
 ユーリは笑いをこらえるためにうつむいて、もう一度、咳をするふりして口のあたりを抑えた。

事の起こりは三日ほど前の晩。
一日が終わり、ユーリはいつものようにカイルの部屋でくつろいでいた。
寝台に半身を起こしてワインの杯を傾けていたカイルの手が伸びてきて、ユーリの体を自分のほうに引き寄せたのは、まだ月が朧な頃だと覚えている。
とたんにワインの香りのする唇が迫ってきて、次の瞬間、ユーリはカイルに組み敷かれてしまっていた。
「…お湯浴みは?」
「後でいい」
そこまで言うのがやっとだった。
後は、カイルの思うがまま、ユーリの意識はどんどん遠くへ行ってしまい、手繰り寄せる術もなくなってしまっていた。
「…っん」
気も狂うような恍惚の瞬間、カイルがその情熱をユーリに注ぎ込もうとしたまさにそのとき、
「母さま!!」
と言う声とともに寝室の扉が勢いよく開いた。
「!?」
 夫婦は何が起きたのか判らず、けれども萌えていた気持ちが急速に冷えてゆくのと、背中に冷や汗が流れているのだけは判ったものの、なにしろ二人とも裸だし、何よりも結ばれたままの状態ではどうしようもできるものではない。
 「あらあら、デイル殿下」
 ハディがすぐさま駆け寄ってきた。
 「ち、父上さまも母上さまももうお休みでございますから、御用はまた明日にいたしましょうね」
 ハディの上ずった声が聞こえた。ずいぶん慌てているのが判る。
 「…つまんないの」
 ふて腐れた声を出しながら、デイルはハディに抱かれて部屋へ帰ったようだ。
 「…行ったか?」
 「そう…みたいだけど…」
 幸い、寝台に垂れ下がる天蓋で二人の姿はデイルに見えなかったらしい。
 「まさかデイルに邪魔されるとは…」
 カイルはぐったりと体の力が抜けた様子で、ユーリの胸に顔をうずめたまま動かない。
 「そんなに気に病むこともないよ。小さなうちはよくあることじゃないの?」
 実はこの前、リュイのところで同じような事が起きたらしい。
 それを聞いていたからか、ユーリは些細な事故、言うなれば、蚊に腿の内側を喰われたくらいにしか思っていなかったのだが、カイルの様子がずいぶんおかしい。
 「…? カイル? どうしたの?」
 カイルはすっかり意気消沈してしまったようで、顔をなかなか上げなかった。
 「ねぇ、どうしたの? ショックだったのはわかるけど、見られたわけでもないんだし…そんなに落ち込まなくても…」
 「…ユーリ」
 「ん?」
 「…駄目になったかも知れん」
 「は?」
 一瞬、何の事だか判らなかった。
 「駄目ってなにが…」
 そこまで言って、ユーリは気がついた。
 「――ほんとに?」
 まさか、カイルに限って、と思いながら身体を起こしてその顔を覗き込もうとしたけれど、カイルは一向に顔を上げない。
 「ほんとうなの…?」
 息子にジャマされて、使えなくなった…ってこと!?
 信じられない。かつてはハットゥサ一のプレイボーイって囁かれたほどなのに…
 「ま、まあ、そのうち治るわよ。気楽に待てば…」
 カイルはユーリの横に寝そべりなおして、しばらく何か考えていたようだったが、
 「今夜は別室で寝る」
 と惜しむらくも躯を引き離し、そう言い残して出て行ってしまった。

 それから来る夜来る夜、カイルは頑張っていたが、それにはいまだ光明を見ていなかった。
 デイルはあれ以来、部屋に来なくなったけれど、カイルもまた来なくなっていた。
 「まったく、これだから男って軟弱よねぇ」
 ユーリは一人寝の寝台で手足を思うまま伸ばしながら、いつかカイルも治るでしょうよ、と大したこととも受け止めずに幾晩かを過ごした。

 「お顔のお色がよろしいですね。よくお休みになられているからでございましょう」
 現場≠見ていながら、それがもとでカイルに人生最大ともいうべき危機が訪れたことを知らないハディは、のんきに焼きたてのパンを運んできた。
 ユーリはその真実がわかっていながら、さほど大したことだとは受け止めていなかった。
 いつか、そのうちに治るんじゃないのかしらんと、焼きたてのパンを頬張ることがどれほど幸せだったか、この後の惨劇を、ユーリが思いあたるはずはない。

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